「日の丸・君が代」の強制など、学校教育を通じて国家が子どもたちの心を支配しようとする動きが強まっている。公教育が「正しい考え」を認定し、子どもに押しつけることは許されるのか。「心の自由」を育てるために、教育はどうあるべきなのか。本書は、「良心の自由」をキーワードに教育のあり方を考える、問題提起の書である。
「基本的人権を一言で言い換えると、自分らしく生きていく権利、という意味になるだろう」と著者は言う。国家権力によって“あるべき生き方”を強いられるようでは、基本的人権が尊重されているとは言えない。だから日本国憲法は、個人の自律を支える鍵として、思想・良心の自由を保障しているのである。
国家権力を拘束する憲法の規定は、当然公教育にも直接あてはまる。学校の中で特定の考え方が「正しいこと」「常識」と認められてしまえば、それと異なる考え方を形成することは難しくなる。したがって、思想・良心の形成に向けて働きかける人格教育の場では、考えが異なる者に教育措置が強制されることのないように、少なくとも任意性を確保しておく必要がある。
この観点からすると、「国を愛する心情」や「日本人としての自覚」という評価項目を持つ「愛国心通知表」は完全に憲法違反だ。特定の心情を持とうとしていることが成績として評価され、それを拒めば悪い成績という不利益が課せられるのだから、これは思想強制以外の何ものでもない。
政府が支持するイラク戦争や自衛隊派兵の意義を正しく答えられなければ「日本人の自覚」に欠けている−−学校がこんな基準で子どもを評価するなら、主体性を持った健全な民主主義の担い手は決して育たない。著者が言うように、教育措置による「愛国心」の一元化は、民主主義の死をもたらすであろう。
子どもたちの思想・良心形成の自由を侵害するようなイデオロギー的教化をしてはならない。このルールは教育行政だけではなく、個々の教員にも適用されると、著者は指摘する。
たとえ平和教育であっても、それを教条化し対立する考えをタブーとして抑圧するようでは、あるべき教育の姿ではない。「『平和的な国家及び社会の形成者』というのは、教師の教える特定の見解に引きずられるようなヤワな存在ではなく、さまざまな議論を経て自分なりの考えを深めていった、独立の人格として初めて成り立つ」からである。
「公教育の中立性」とは、政治的・宗教的・道徳的な問題を一切扱わないことではない。学校が「お互いの違いを確認し、それでも相手を尊重しながら議論を進められる」場所であってこそ、自律的に考え判断する子どもたちを育てることができる。本書の提言は、民主的な学校づくりのためのヒントとなろう。 (O)