日本の侵略戦争末期、沖縄に強制連行され、虐殺された元朝鮮人軍夫を刻んだ「恨(ハン)之碑」の除幕式(主催、同碑建立をすすめる会沖縄)が5月13日、沖縄県読谷村で行われた。99年に韓国慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡に建立された同碑と対をなす。戦後60年を経て、日本政府は再び戦争をする国へと急速に歩を進めている。沖縄での「恨之碑」の建立、除幕式は日韓民衆による平和への闘いをあらためて誓う場となった。(T)
人間の尊厳を表現
急な坂道を登ると、広場に出る。高さ3メートルほどの琉球石灰岩の小山があった。ごつごつした岩肌にブロンズ製のレリーフ「恨之碑」がおさめられている。かたわらには、日本語とハングルによる碑文が石版に刻まれ埋め込まれた。日本軍の軍夫や慰安婦として強制連行された朝鮮人犠牲者に対し「あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ / 地球上から戦争と軍隊を根絶することを / この地に果てた兄姉の魂に / 私たちは誓う」と結ばれている。
除幕式・レセプションを終えて記念写真(5月13日・沖縄県読谷村)
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「恨」は、日本で言う「うらみ」とは異なる。相手に同じ苦しみを与える復讐によって晴らされるものではない。心の底に刻まれた耐え難い苦痛・屈辱の思いは、相手を諭し悔い改めさせることで自らの名誉を回復し解かれていく。レリーフの製作者、金城実さんは「連行する日本兵のゆがんだ顔に恐怖心を、連行される青年には、なにものにも動じない人間の尊厳を表現した」と語っている。
序幕後、碑の前に強制連行生存者姜仁昌(カン・インチャン)さんの手で、韓国慶尚北道から沖縄に強制連行された2815人の名簿が納められた。名簿は和名で記されており、英陽郡出身の「姜仁昌」は「山田仁昌」と変名されていた。本名がわからず、身元確認ができない名前も多くあるという。韓国の運動団体・太平洋戦争被害者補償推進協議会が苦労して入手したものだ。日本政府は、当時自らが作成したにもかかわらず、いまだに資料を秘匿し、知らぬ顔を決め込んでいる。
恨之碑
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名簿を納め、碑をじっと見つめた姜さんは黙礼し流れ落ちる涙をぬぐった。英陽から連行され、沖縄では食物もほとんど与えられず、奴隷のように荷役に使われた。食物を盗ったとの理由で処刑された仲間。その場に立ち会わされた苦渋の出来事の一つ一つが思い出されたのかもしれない。
建立は最終目的ではない
「恨之碑」建立運動は、1997年沖縄で開催された働く青年の全国交歓会に端を発する。強制連行被害者として証言した姜さんの訴えに、参加者は実行委員会を結成し全国に協力を呼びかけた。
日韓それぞれに碑を建てる計画は、99年に韓国でそして今年沖縄で実現した。案が出てから9年、この間の日本政府は戦争責任をあいまいにし、その一方で戦争への準備を着々と進めてきた。有事法制や自衛隊の海外派兵。そして現憲法を破棄し、新憲法制定へ。「恨之碑」建立運動はそんな日本の戦争政策の歩みと対峙することになった。
あいさつする姜仁昌さん
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式後、マスコミ各社は姜さんに碑建立に対する感想を求めた。姜さんは語気を荒らげて言った。「そんなことばかり聞いているが、私たちが戦中どんな扱いを受けたのか、どんなつらい思いをしたのかを聞くべきではないか」
軍隊は、人間的理性をなくすことで成り立つ組織だ。人殺しに対する抵抗感をなくし、人間の尊厳を踏みにじることをいとわない感覚を身につけた集団だ。この生き証人が目の前にいる。そしてその思いを「恨之碑」に刻んだ。碑の建立が最終目的ではない。いまだに隠された侵略戦争の実相を暴き、その反省を帳消しにさせないことだ。
新たな闘いのはじまり
読谷村の「恨之碑」は、姜さんが連行された慶良間諸島、阿嘉島の方角を向いている。碑に向かえば、その先に朝鮮半島に続く海が見える。英陽の碑は、高台に沖縄の方角に向かい建っている。日韓民衆が同じ碑を通して思いをはせることができる。「地球上から戦争と軍隊を根絶することを誓う」
碑の建立は、新たな闘いのはじまりだと多くの人々は語った。「恨之碑建立をすすめる会沖縄」共同代表の平良修さんは「記念碑は建立当初はそれなりに尊重されますが、時の経過で次第に記憶から遠ざかってしまうことが多いものです。私たちは『恨之碑』をそのようなものにしては決してならないと考えています」と主催者を代表して挨拶した。
全世界に侵略の兵を送り出す在沖米軍基地。日米共同使用へステップアップをもくろむ日本政府は、基地強化に積極的に動いている。あらためて、基地撤去の闘いが問われている。
7年前、英陽の「恨之碑」除幕式の後、姜さんに「恨は解けましたか」と質問した時、「少しだけ」と笑顔で答えてくれた。今年、沖縄での除幕式後、あえて同じ質問をした。姜さんは「少しだけ、少しだけ」と強く念を押して言った。膝に置かれた手は強く握り締められていた。