大阪・堺市の無防備条例直接請求署名は、法定数1万3500筆を大きく超える約2万筆が集まった。そこに示されたのは「戦争をしない、させない」という市民の強い意志であった。
1か月の労をねぎらう(12月10日・堺市)
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署名最終日の12月10日は、ようやく晴れの一日となった。初日から雨のスタート、以降も週末は悪天候が続くという苦戦を余儀なくされた署名運動。その中で法定数を超える成果を作り出したのは、堺市民の心温まる協力であった。
南海・堺東駅前での署名活動フィナーレのつどいは、市民に感謝を述べる場となった。子ども全交「堺・松原獅子舞クラブ」の子どもたちが何度も市民に獅子舞を披露した。署名スタッフからは署名期間でのエピソードが語られた。「『戦争は絶対あかん』という声をたくさん聞いた。戦後61年経っても、戦争の記憶を胸に刻み込んだ人々が数多く暮らしていることを改めて知った」「閣僚の核武装発言など安倍内閣に大きな不安を抱いていることも分かった。若い人からも『安倍さんはあぶない。いやな方向に進んでいる』の声を聞いた」「堺市民はほんとうに気持ちよく署名をしてくれた。スーパーなど、お店の人も親切だった」
署名活動フィナーレのつどい
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集計された署名数は1万9436筆。法定数の1万3508筆を大きく超えた。
多くの出会いがあった
カウントダウン行動は「みんなでゴール・イン」が合言葉。無防備地域条例を実現する堺市民の会事務所でのパーティで、1か月間の労をねぎらった。
請求代表者の石黒和代さんは「怒涛の2006年11月、12月を私は決して忘れない」と語る。実は署名開始直前に、石黒さんの長男が交通事故にあった。命だけは大丈夫だと思っていたが、2週間後に亡くなった。中学3年生だった。「『署名のことは心配するな』とみんなから励ましを受けた。最後には署名に参加できた。息子から『僕の友だちのためにも頑張ってくれ』と言われているようで。みんなの支えは決して忘れない」
同じく請求代表者の豆多敏紀さんは「安倍内閣など戦争屋は『少々の犠牲よりも国益が大事』という考え方。しかし、一人の命に優る国益はない。この運動は一人の犠牲も出さないための運動だ」と力説する。
當内健利さんは6年前に堺市に移ってきた。躊躇はあったが請求代表者を引き受けた。「多くの出会いや知り合いもできた。ようやく堺市民の運動に参加でき、楽しい思い出となった」とふり返る。
署名スタッフのエピソードはつきない。それは一人の市民への対話やこだわりだった。一人の命、一人の市民を大切にしてきた努力の積み重ねが、堺市の無防備地域運動だった。