石原慎太郎が製作総指揮の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(新城卓監督)が公開中である。特攻隊を題材にしたこの映画、宣伝文句によると「無残にも美しい青春があった / 彼らを心で抱きしめた女性がいた」という感動作なのだそうだ。冗談言っちゃいけない。本作品は戦後映画史上最悪の部類に入る戦争誘導映画である。
靖国PRフィルム
第二次世界大戦末期、陸軍特攻隊の出撃基地が置かれた鹿児島県知覧町。映画は、特攻兵から母のように慕われた食堂店主・鳥濱トメ(実在の人物 / 故人)の回想という形式で、若き特攻兵たちのエピソードを綴っていく。
愛する女性から贈られた血染めの日の丸を身につけ飛び立った中西少尉、朝鮮人として死ぬことの意味を自問し続けた金山少尉、「自分は蛍になって戻ってくる」とトメに約束した河合軍曹。彼らは過酷な運命に苦悩しつつ、残された日々を誠実に生き、愛する者を守るために散っていった(と映画は描いている)。劇中のトメのセリフを借りれば「みんな素晴らしか、美しか若者たちでございもした」というわけだ。
ラストシーンでは年老いた現在の中西(撃墜され生き残った)とトメの前に、死んでいった仲間のまぼろしが現れる。桜並木の下でにこやかに笑う「英霊」の姿に『海ゆかば』の旋律が重なる。そしてトメは心の底から「ありがとう」と語りかける。
こんなシーンを観ていると、自分が遊就館(靖国神社にある戦争“美化”博物館)にいるような錯覚に陥ってしまう。「英霊の尊い犠牲の上に今日の平和・繁栄がある」という戦争美化のレトリックは小泉前首相らが靖国神社参拝の正当化に使ったそれとまったく同じものだ。
映画の登場人物が「靖国で会おう」式のセリフを連発するあたりは、まさに靖国PRフィルムとしか言いようがない。本紙が取り上げた日本の戦争映画の中でも確実にワースト3に入る作品だ(ほかの2つは『プライド』と『ムルデカ17805』)。
「君」とは天皇のこと
さて、「自爆テロ」が世界各地で問題になっている今日、特攻作戦を正当化するにはごまかすべき点が幾つかある。そこを本作品がどう処理しているのか、みてみよう。
まずは「しょせん犬死だったのではないか」という批判である。実際、特攻作戦は戦局に大きな影響を与えたわけではない。兵隊の命をいたずらに消耗品扱いした究極の非人道作戦であった。
この問題をクリアすべく、映画は登場人物に特攻作戦の意義を語らせている。いわく「日本は負ける。だが、負け方が大切だ。祖国のために死ぬことを厭わない大和魂を米国に見せつけることで講和を有利に導くのだ」。まったく手前勝手な歴史解釈としか言いようがない。特攻が後の歴史に影響を与えたとすれば、それは「殉死」の美学による卑劣なテロの再生産という負の影響ではないか。
映画はまた、『俺は、君のためにこそ死ににいく』というタイトルが示すように、特攻兵は愛する者や家族を守るために死んでいったという描き方をしている。勤労動員の女学生が空襲で死ぬ場面を入れるなどして、「攻撃をやめさせるには特攻しかなかった」というように誘導する。
しかし当時の日本兵には個人的心情での死など許されてはいなかった。特攻兵個人が死をどのように受容したかとは関係なく、軍部はあくまでも国体護持、すなわち天皇制国家の延命のために自爆作戦を立案し敢行した。「君のためにこそ死ににいく」の君とは、天皇のことなのだ。
それなのに、この映画は天皇について語らない。天皇に言及したセリフやナレーションが一切ないのだ。何とも極端な歴史の改ざんだが、確かに「天皇陛下の御為に死ね」では現代の若者意識を引きつけることは難しい。そこで「愛する者の延長線上に国家がある」という図式でナショナリズムを喚起しようとしているのである。
死者を二重に冒涜
映画の終わり近く、特攻作戦の発案者とされる将校が切腹する場面がある。指揮官は部下を見殺しにしたのではなく、自身も潔く責任をとった言いたいのだろう。
あのねぇ、「特攻の父」とよばれる大西中将が自刃したのは事実だけど、最高責任者の天皇および当時の戦争指導者はどうなのさ。侵略戦争を引き起こし、他国の民衆や自国民の命を奪った連中の大半は自らの戦争責任に頬かむりし、戦後も支配層の座に居座り続けたでしょうが(その典型が安倍現首相の祖父にあたる岸信介だ)。
無駄死させた若者への謝罪もなく、今また「英霊」と讃えることで新たな戦争の道具に使う。これは死者を二重に冒涜する行為である。『俺は、君のためにこそ死ににいく』は、そういう類の戦争誘導映画なのだ。 (O)