2007年08月10日発行997号

非国民がやってきた!(17)

金子文子・朴烈(2)

 早口と情に激する我が性は

        父より我へのかなしき遺産

 朝鮮の叔母の許での思い出に

        ふとそそらるる名への憧れ

 上野山さんまへ橋に依り縋り

        夕刊売りし時もありしが

 居睡りつ居睡りつ尚鈴振りし

        五年前の我が心かなし

 金子文子については多くの本が出ていますが、一番便利で詳しいのが山田昭次『金子文子』です。文子の半生の自伝として『何が私をかうさせたか』も大変有名です。出版社を変えて何度も出版されています。鈴木裕子『金子文子――わたしはわたし自身を生きる』や、瀬戸内晴美『余白の春』というドキュメンタリー小説もあります。

 文子の性格や人柄、また生活に触れた本人の短歌を見てみましょう。「早口と――」と詠っているように、興奮して喋り出すと止まらない人だったそうですが、これは父親譲りということです。それから「朝鮮の――」は、若い時に朝鮮の伯母のところで育てられていたので、その時の思いを詠っています。「名」というのは一族の名前のことです。つまり名家の生まれに憧れたというものです。3つ目の「上野山――」は学費を稼ぐために新聞を売っていた経験です。当時は新聞を家に配達する制度ではなく、路上で売っていた訳です。新聞や石鹸を売って学費を稼いでいた時の辛かった思いを詠っています。「居睡りつ――」もそうです。夕方に石鹸などを売る時に鈴を鳴らしてお客さんに声をかける。他にも仕事をして、暮らしは大変という中で、なおかつ石鹸売りをやっているので、眠くてつい居眠りをしていたという歌です。

 文子の幼い頃については、本人の『何が私をかうさせたか』に詳しく書かれています。

 1903年1月25日に横浜市に生まれています。父は佐伯文一、当時横浜市寿署の巡査でした。母は金子きくの(戸籍上は「きり」)で、山梨県出身です。父親の佐伯文一ですが、佐伯家は歴史のある由緒正しい家だったそうで、それが自慢でした。ところが本人は真面目に働かない。警察官も後に辞めてしまいますが、真面目に働かないのでどんどん貧乏になって苦労する。とてもいい加減な性格で、金子きくのと結婚したのに戸籍は入れません。なぜかと言うと、佐伯家は名家である、金子家は貧乏人の家である、だから結婚して一緒に暮らして子どもを3人つくっても戸籍に入れない。名家などと自慢して歩いていますが、全然働かないから暮らしていけない。貧しい。後に娘を売り飛ばそうとします。文子は、こういう困った父親のもとで育ちます。

 後に両親が別れると、母親は他の男と暮らします。母親は自分ひとりで生きていける女性ではありませんでした。1908年から母親は中村とか、小林とかと同棲を繰り返しますが、運の悪い人で、付き合った男は皆ぐうたら。まじめに働かない。そのためにとても苦労します。1910年、韓国併合の年に、母親の実家、山梨県丹波に移りますが、この時には小林の実家の物置に住むという状態になっています。そして、弟や妹は人に貰われて行ったので離ればなれになります。

<参考文献>

金子文子『何が私をかうさせたか』(黒色戦線社、1972年)

金子ふみ子『何が私をこうさせたか』(春秋社、1931年 / 2005年)

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