2007年08月24日発行999号
前田 朗の「非国民がやって来た!」(18) 金子文子・朴烈(3)

 1911年、母親が塩山の雑貨商と結婚します。子どもは連れて行けないということで、金子文子は父親からも母親からも捨てられた子どもとなります。しかも戸籍がない。「無籍者」とされます。両親に捨てられ、戸籍に入っていない状況でした。1912年に、祖父の娘という嘘の戸籍を作って初めて戸籍に入る。それまで学校に行きたくても行けない。戸籍がないので通わせてもらえない。無理やり頼んでいれてもらっても、勉強はとてもできたのに終了証も貰えません。学校の先生にも差別される状態で、ずっといじめられて育ちます。暗い子ども時代を過ごします。ところが朝鮮に親戚がいてお金持ちだということで、1912年10月、朝鮮忠清北道の親戚の元へ引き取られて行きます。

 跡取りという名目で連れて行かれたのに、実際は女中としてただ働きさせられます。小学校に入れてもらえて1917年に高等小学校を卒業しています。最悪の環境であったにもかかわらず、なぜか非常に勉強ができました。尋常小学校と高等小学校の記録を見ると、国語とか算数等の学科科目は全部トップクラスの素晴らしい成績を残しています。とても優秀な子どもでした。ただ、実技科目は苦手でした。

 そういう中、1919年に「3・1運動」が起こります。韓国は1910年に日本に併合されていた訳ですが、朝鮮人が日本からの独立を訴えて抵抗運動を起こしたのです。これを見た文子は他人のこととは思えない程感動しました。自分は戸籍もない貧乏人で、差別され、いじめられてきた。同様に差別されている朝鮮人が、独立のために立ち上がって闘っている。とても感動したという記録が残っています。その後、山梨の実家で暮らすことになります。ところが、もっと勉強したい、学校の先生になりたいと考えて、1920年に父親に相談するのですが、女なんか勉強する必要はないと相手にしてもらえないので、家を飛び出します。父親とけんかをして、勉強するんだと言って東京に出ます。まだ16歳でした。

 東京・上野の新聞店に住み込んで新聞売りをしながら正則英語学校と研数学館に通います。しかし新聞売りではとてもやっていけない。生活をして学費も稼がなくてはならないので、さらに粉石鹸の夜店を出したり、浅草の鈴木家の女中となって働いています。住み込みで、食事は何とか出ますから最低限暮らしてはいける。けれど本人は勉強したい、でも中々勉強できない。苦労しながら頑張ります。

 1921年、本郷追分町の印刷屋・社会主義者の堀清俊方に住み込んで働きます。夏には元鐘麟と知り合い、元の紹介で共産主義者の鄭又影、金若水や、無政府主義者の鄭泰成等とつき合う様になります。この頃東京に出て来て、無政府主義や社会主義の思想に立って朝鮮独立運動をしていた人たちと知り合っていきます。有楽町に通称「社会主義おでん」というおでん屋があったそうですが、そこで働きます。1922年2月か3月に朴烈と知り合います。ここまでが10代の文子の生涯ということになります。当時も今も普通では考えられない人生ですが、自分の道を切り拓いていきます。

<参考文献>

鈴木裕子『金子文子――わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、2006年)

瀬戸内晴美『余白の春』(中央公論社、1972年)

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