2020年02月07日 1611号

【日韓ユース平和参加団in済州/歴史を知り平和の闘いを決意】

 ZENKOと韓国の代案文化連帯が日韓青年の共同行動を深めようと企画した「日韓ユース平和参加団in済州」(1月10日〜13日)。参加者は済州4・3事件の虐殺現場に身を置き、平和への思いを強くした。寄せられた感想を紹介する。(7面に関連投稿)

歴史と真実を知り、行動を 代案文化連帯 チョン・ボムジン

 初めての済州。意味深い時間になるとの期待感で参加した。だが、見て聞いた内容はそれ以上に衝撃的だった。

 いくつもの時代に渡って「国家暴力」が振るわれた事実を初めて知った。セッサルオルム、クヮンチギ海岸で聞いたその凄惨な話と4・3記念館で見た光景は、悲しみを越えて怒りを覚えた。同じ人間、同じ言語、同じ文化を持つ民族同士が殺しあった事実に恐怖した。

 最も印象深かったのは、平和のために闘う人びとだった。説明の中でも言葉が詰まり、ずっと泣いていた。何のために闘争するのか、何を守るために国の不条理と対抗するのかを知ることがでた。過去を繰り返さないために、故郷を守るために、同じ土地を踏んで生きる人々が苦しまないようにするためにだと。

 決して繰り返されてはならない悲劇を防ぐために、私たちは記憶し行動しなければならないことをその人びとを通して学んだ。

 歴史と真実を知らないまま生きてきた時間を反省し、今後、私の位置から、私ができる行動を見つけていく。

生きていくための闘いを孤立させないで パク・ジミン

 済州の風は厳しい。アルトゥル飛行場、城山日出峰(ソンサンイルチュルポン)、4・3平和公園、スサン初等学校、カンジョンマウル。寒い天候下でも懸命にたどった。私は島ということで苦難を経験した済州の歴史をたどった。そして4・3平和記念館で、道民を殺した実弾を見た。不合理な死がここに嵐のようにまきおこっていたことを知ることができる。

 我々は名前を付けて対象を認識する。半島の人は済州島民に「アカ」という名前を付けた。道民はその瞬間、人間ではなく、「死すべきアカ」になる。現在済州は生活の場ではなく「お金になる観光地」である。権力者は好きなように名前を付け、簡単に生活共同体を壊す。

 少数者は叫ぶ。抵抗の叫びでもあり、苦痛の叫びでもある。生きていくための闘争が少数者の孤独な闘いにならないよう、常に耳を立てておかないといけないと考えた。短い紀行では知ることができない痛みが済州である。済州の痛みを少しでも知ることのできた韓日平和紀行と企画チームに感謝する。

人間の痛みに共感できる社会を 代案文化連帯 イ・ゼホン

 済州で日本の青年たちと一緒に平和と民主主義のための一歩を踏み出した。アルトゥル飛行場と4・3平和記念館、済州第2空港予定地と江汀(カンジョン)村の海軍基地を巡り、痛みの歴史を一緒に感じた。

 4・3抗争と第2空港などの議題について浅くしか知らなかった。今回の紀行を通じて虐殺現場を直接見て案内者の説明を聞きながら深い痛みを感じた。イデオロギーの闘いと権力欲のために済州の罪のない市民と家族が虐殺された。これは遠い昔でない韓国の胸が痛くなる歴史だ。その痛みを一緒に共感することが不当に死んでいった人びとを覚えて慰める道である。歴史はドラマではなく、現実である。現在の生活と非常に深く接続されて、個人の生活に影響を与える。辺野古基地やセウォル号事件などが私たちの話であるように、痛い歴史を覚えていることは常識的で人間的な社会のために進む道である。欲望が支配する社会ではなく、人間の痛みに共感できる社会を夢見る。

悲惨な事実を未来に伝える ZENKO兵庫 阿部雄介

 済州島の歴史は哀しみでしかなく、4・3事件の悲惨さに息を呑んだ。名前が未だ定まらないと言われたノ・ミンギュさんの言葉は、事件の重みを感じさせる言霊(ことだま)だ。クァンチギビーチでは犠牲者の遺体が野晒(のざら)しにされ、獣たちに食べられても何も出来ないなど、想像もできない世界がそこにはあった。国は何もしようとせず、住民がカンパで追悼公園記念碑を建てたと聞き、人びとの思いの丈、2度と繰り返したくない思いの強さを感じた。

 しかし、現在の済州はそんなことなど無かったかのように、中国資本などが買い漁る観光開発が進み、第2空港建設で歴史的城壁を残すスサン小学校の廃校やオルム(寄生火山)の掘削が計画されている。他にも環境汚染、水不足などなど挙げればきりがない。何故そこまでされてしまうのか、資本はどこまで奪えば気が済むのか、すべてを知らないといけない。メディアが語らない以上、私たちが未来に伝えていかないといけないと思う。

4・3事件の怒り、悲しみに向き合って 横浜 青島みのり

 日韓ユース平和参加団で特に印象に残っているのは、やはり4・3事件のことです。私自身、「済州島で虐殺事件があった」というだけの浅い知識しか持っていませんでした。実際に4・3平和記念館へ行き、それが、どれだけ恐ろしい事件だったかを痛感しました。

 1948年4月3日に起こった4・3事件。でもその日が全てではありません。3月1日にあった銃撃事件やそれを受けてストライキを起こした島民たちの闘いもまた4・3事件の一部と言える出来事です。

 館内の特別展示では薄暗い洞窟の中に横たわるように不規則に並ぶ人の骨がありました。別の場所では白壁に埋まる囚われた人々がいました。射殺され、窒息死させられ、家は焼き払われ。館内の展示全てが、事件の残酷さ、残忍さ、怒り、悲しみを語っていました。事件が残したものは「骨」と「銃」だけでした。

 島民はただ、解放と自由を願っただけのはずです。まだ名前のないこの事件に私たちはもっと向き合わなければいけないと、強く思いました。



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