2020年02月14日 1612号

【新・哲学世間話(15) あやしい、危うい「日本賛美」 田端信広】

 いつごろからか、やたらと「日本賛美」のテレビ番組が増えているように思う。日本製の家電や技術が遠く離れた国で重宝され、賛美されているのを仰々しく伝える番組などは、まだ他愛もなく、罪もない。日本の消費文化を「クール・ジャパン」と銘打って、売り込みを図るのも、まあいいだろう。それは商売のための便法なのだから。

 ところが、それを踏み越えて「クール・ジャパン」が日本文化の「洗練された優秀さ」、「繊細な、卓越した美意識」を意味し、しかも、それらが「日本文化」に独自で特有の素晴らしさだと言われ出すと、もうあやしい。ましてや、それが「日本人の優秀さ」を示しているとなると、もう駄目である。

 伝統に根ざした日本文化の優秀さを賛美するのは、一昔前までは、特定の保守的文化人の専売特許であった。だが、最近は事情が違うようだ。「ネット右翼」と称される連中が、脈絡もなしに、それが日本の伝統に根ざしているという理由だけで、やたらと「日本文化」の優秀性を賛美している。そうした賛美は、しばしば無限定な「日本」の優秀さ、「日本」の誇りといった心情に支えられている。

 この心情には「他国との比較において」という意識がいつも忍び込んでいる。そうなると、この手の「日本賛美」論は、ヘイト・スピーチの裏返し、つまり排外主義的ナショナリズムそのものであることは否定できないだろう。

 自国の文化や芸術だけが素晴らしいと考える偏狭なナショナリズムと対極をなしている一つの事例を挙げておこう。

 「民藝運動の父」と呼ばれた柳宗悦(やなぎむねよし)の仕事のことである。柳は1916年以降たびたび朝鮮にわたり、朝鮮の民衆の日用雑器のうちに、それまでだれも顧みなかった卓越した美的価値を発見した。民衆が日常使用している民芸品に驚くべき美の姿を発見したのである。そして彼は、それを生み出した朝鮮の民衆にかぎりない敬愛の念を寄せた。そのことを日本でも実践するなかで、彼の「民藝」理論が生まれたのである。

 この仕事がいかに、偏狭な「日本文化」賛美論の対極にあるかは、詳しく説くまでもなかろう。このことは、異文化に対する「理解」と「尊敬」を欠いた「クール・ジャパン」賛美がいかに薄っぺらく、危ういものであるかを教えている。

(筆者は元大学教員)
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