2020年02月28日 1614号

【シネマ観客席/パラサイト 半地下の家族/監督・脚本 ポン・ジュノ 2019年 韓国 132分/「貧困」「格差」―世界が共感/新自由主義の歪みを描く重喜劇】

 韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が米アカデミー賞で作品賞など主要4部門を獲得した。日本のメディアの評価も「世界を蝕む格差社会の醜さと残酷性を容赦なく映像化した」(2/11東京新聞社説)など大変高い。しかし、本作はさらに重要な視点を提示しているように思う。

交錯する2つの家族

 ソウル市内の半地下式住宅。貧困の象徴というべき住まいでキム一家は暮らしていた。父親のギテクをはじめ4人全員が失業中。宅配ピザの包装箱を組み立てる内職でかろうじて生計をたてていた。

 そんな中、長男ギウが友人の紹介で家庭教師の仕事にありつく。名門大学の学生になりすましての採用だった。教える相手はIT企業社長の娘。高台の大豪邸でギウは富裕層の生活ぶりを目の当たりにする。

 ギウの発案により、父ギテクらは素性を偽り、運転手や家政婦などとして社長宅に潜り込んだ。計画は大成功。「勝ち組」のおこぼれをいただくパラサイト(寄生虫)生活を一家は堪能していた。だが、キム一家も社長家族も知らなかった秘密が発覚。事態は急展開するのであった…。

高低差と臭い

 社会性と娯楽性を高いレベルで両立させた本作品。社会風刺や家族ドラマ、サスペンスなど様々な要素を含んでいるが、あえてジャンル分けすれば今村昌平監督が提唱した「重喜劇」の現代版と言えるのではないか。腹にずしりと響く重い笑いを使い、社会の矛盾や人間の業を描き出す作品のことである。

 ポン・ジュノ監督は「資本主義の時代を生きる私たちが直面している格差の問題は、創作者にとって避けては通れない問題だと思っています」(12/27ハフィントンポスト)と語る。この言葉が示すように、物語の基調にあるのは現代韓国における貧富の差の拡大、深刻な社会分裂である。

 キム一家が暮らす半地下式住宅は映画用の設定ではない。韓国では今も全世帯の2%(36万世帯)がこのような居住空間での生活を余儀なくされている。

 住居の高低差はそのまま階級の差を表している。半地下のキム一家が高台に上昇することはまず不可能だ。才覚と努力次第というのが新自由主義のタテマエだが、階級移動のはしごは取り外されている。格差の固定化が現実だ。

 しかも、富める者は貧しき者の現実に残酷なまでに関心がない。ポン・ジュノは言う。「彼らは見えない線を引いていて、その線を越えた外の世界にはまったく関心を持っていません。たとえ目に見えていたとしても、線の外にいる貧しい人たちのことは、まるで見えていないかのように行動するのです。…この作品は、その見えない一線が越えられた時に起きてしまう悲劇を描いています」(同)

 出会うはずがなかった2つの家族が一つ屋根の下で互いの臭いをかぎ合う距離に接近する。身なりはごまかせても臭いは簡単に消せない。キム一家の体臭が社長の家族には度を越した悪臭に感じられる(「地下鉄の臭い」という言い草がまた強烈だ)。

 「××臭(くさ)い」という言葉が最上級の罵倒効果を持つように、臭いと言われることは人の心を大きく傷つける。自分のすべてを否定されたような感じがするのだ。社長から臭いを指摘されたギテクは、自分でも気づかぬうちに鬱憤(うっぷん)をためていったのだろう。

寄生しているのは誰か

 ギテクを演じたソン・ガンホは本作品の普遍性を強調する。「残念ながら世界のどこに行こうと、こうしたふたつの階級は存在し、大きな壁がその間にある。だから他の多くの国でも共感できることだと思うのです」(『キネマ旬報』1月上・下旬合併号)

 実際、貧困や社会的排除をテーマにした映画が近年、大きな注目を集めている。『パラサイト』は2019年のカンヌ国際映画祭でも最高賞に輝いたが、18年は日本の『万引き家族』(是枝裕和監督)、16年は英国の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)が同賞を受賞した。

 アカデミー作品賞の有力候補だった米国の『ジョーカー』も貧困と排除を背景にしている。主人公のアーサーは社会福祉予算の削減により精神疾患の治療を受けられなくなり、病状が悪化。偶然入手した銃で起こしてしまった事件が、特権富裕層の横暴に対する民衆の怒りに火をつけるというストーリーだ。

 作品賞を競り合った両作品の共通点は、虐げられた貧者の怨念が暴力の噴出として表現されることにある。『ジョーカー』の場合、白人貧困層がアーサーを英雄に担ぎ上げる描写を危険視し、極右勢力によるマイノリティ迫害を誘発しかねないとの批判もある。

 『パラサイト』はどうか。ネタバレ厳禁のため表現しにくいのだが、秘密の発覚によって起きたのはパラサイトの地位をめぐる、はたから見れば滑稽な争いだった。ギテクやギウが階級意識に目覚めるなんてことはない(それをやったらリアリティがなくなるが)。

 これは娯楽映画の限界というよりも、階級間の対立が激しくなっているのにもかかわらず、労資関係という基軸の部分で顕在化することを抑圧された現代社会の困難性とみたほうがいいだろう。抑えつけられた矛盾は家庭崩壊、いじめ、差別事象、それらに起因する犯罪となって暴力的に噴出しているというわけだ。

 ポン・ジュノ自身は「この映画で最も重要なのは怒りではなく悲哀です」(週刊朝日2/21号)という。それでも本作品は根源的な疑問を発している。この社会における寄生階級はいったい誰なのか、と。 (O)



MDSホームページに戻る   週刊MDSトップに戻る
Copyright Weekly MDS