2020年03月06日 1615号

【非国民がやってきた!(325)国民主義の賞味期限(21)】

 佐藤嘉幸と廣瀬純は、現代資本主義に対抗する革命戦略実現のための戦術について、ドゥルーズ=ガタリの思想を3段階に分けて読み解きます。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』では、「過去からの革命」論として、「レーニン的切断」たるロシア革命の分析を通じて、階級利害の現勢化の必要性を認識する一方で、階級利害に囚われるのではなく、欲望的生産に従う「主体集団」の構築を展望しました。

 続いてドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー――資本主義と分裂症』(1980年)で、第2段階の議論を展開します。「レーニン的切断」を超えて「68年5月を三度、再領土化する」ことは「現在での革命」を理論化しなくてはなりません。佐藤と廣瀬によると、『千のプラトー』では68年5月のマイノリティ集団の公理闘争を媒介として、「新たな社会運動」に向かう必要が生じていました。国際政治の対抗軸は東西から南北へと移行していました。これに伴って、女性運動、植民地出身者の運動、少数民族の運動などの解放闘争が世界的に噴き出していました。

 フェミニズム、公民権運動、先住民族運動、学生運動を始め、今日につながる多様な対抗運動が勃興した時期です。

 『千のプラトー』は運動面でのグローバルな変化だけではなく、資本主義社会の内的変容も見逃しません。1970年代初頭のニクソン・ショック以後の動向を、機械状隷属化の再導入として把握します。つまり、資本主義社会は、いったんは帝国的社会の機会状隷属化を廃棄する方向に向かい、新たな社会的服従のメカニズムを備えようとしていたのですが、ここに至って新たな形で機械状隷属化が再導入されたのではないか。

 このことを後にドゥルーズは「規律(ディシプリン)」から「制御(コントロール)」への移行として位置づけることになります。

 鍵となる概念は、横断性や多様性としてのリゾームであり、権力(マクロ権力とミクロ権力)であり、資本と国家と諸機械の関係性です。『監獄の誕生』で定式化されたミシェル・フーコーの規律権力論との対話を通じて、国家装置の作動を重視するドゥルーズ=ガタリの権力論が螺旋状に開示されます。国家の権力装置が社会の自由な欲望のフローをどこまで捕捉しうるのか。そこにいかにして逃走線を見出すのか。佐藤と廣瀬は次の着地点を提示します。

 「『千のプラトー』において、資本主義を打倒するものとして展望されているのは、万人がマイノリティ性への生成変化の無限過程の上に自らを再領土化し、万人によるリゾーム状主体集団を形成する、という戦術である。」

 女性、有色人種、LGBT、少数民族、プロレタリアート、不安定労働者など万人が横断的に連結し合ってリゾーム状主体集団を形成することが、脱服従化の運動を推進するのです。そこからマイノリティの公理闘争の具体的分析が始まります。
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