2020年03月13日 1616号

【未来への責任(293)「万世の太平」に程遠い慰霊碑】

 ピースボートに乗った。

 「水先案内人」として、乗船した方々向けに洋上で開かれる「講座」で話をさせていただくことになったのだ。テーマは、(1)遺骨・ヤスクニ問題(2)徴用工問題の2つ。2月2日に南太平洋のオーストラリア付近に位置するバヌアツで乗船し、7日にパプアニューギニアのラバウルで下船するまでの間に報告することになっていた。ところがコロナウイルスの関係でラバウルに寄港できず、急遽(きょ)ガダルカナルで下船した。

 下船したガダルカナルでは、戦跡を巡った。ガダルカナル戦(1942年8月〜43年2月)、日本軍は3万1千人の兵士を送り込み、ソロモン海戦、上陸戦を戦ったが惨憺(さんたん)たる敗北を喫し、1万人余を撤退させて終わった。戦死者は約5千人、あとの1万5千人は餓死・戦病死だった。ガダルカナルを「餓島」と呼んだ所以である。巡った戦跡は3か所、(1)「血染めの丘」(2)飛行場(3)「馬の背」(ソロモン平和慰霊公苑)。(1)は、一木支隊(第7師団歩兵第28連隊が基幹)の壊滅後に投入された川口支隊が敗走させられた場所。(2)は、元々は日本軍が建設したが、それを米軍の奇襲攻撃により奪われた飛行場。この飛行場の確保を巡ってガダルカナル戦は始まった。(3)も激戦地であるが、ここに慰霊碑が建立されていた。

 その碑文には次のように記されていた。「第二次世界大戦においてガダルカナルはじめ太平洋の全域で散華(さんげ)されたすべての英霊を鎮魂し、それぞれの祖国に捧げられた忠誠心を偲び、ここに万世の太平を拓かんことを誓う」。建設主体は、「太平洋戦争戦没者慰霊協会」で、1980年10月25日竣工。私はこの碑文に強い違和感を覚えた。

 アジア太平洋戦争で戦没した兵士の過半数が餓死・戦病死であったことを明らかにした『餓死した英霊たち』(藤原彰著、青木書店)が刊行されたのは2001年5月であったが、ガダルカナルが「餓島」と呼ばれ多くの兵士が餓え死にし、戦病死したことはつとに知られていたはずである。

貫かれたヤスクニ思想

 それを「散華」と言い、無念の死を遂げた兵士を「英霊」と呼ぶ。餓え死にさせられた兵士も、祖国(天皇)に「忠誠心」を捧げたと言う。確かに、碑文は「すべての英霊」と書き、「それぞれの祖国」としていて、日本兵だけを慰霊するものとはなっていない。しかし、そこにヤスクニ思想が貫かれているのは明らかだろう。他方、ガダルカナルには今も回収されないまま放置された兵士の遺骸が眠っている。飛行場建設のための動員に対する補償もされていない。これで「万世の太平」は拓かれるだろうか。

 戦後75年、あの戦争は今も終わっていないのである。

(強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク 矢野秀喜)
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