2020年03月20日 1617号

【非国民がやってきた!(326)国民主義の賞味期限(22)】

 ドゥルーズ=ガタリは1970〜80年代の議論を踏まえて第3段階に対応した議論を模索しました。佐藤嘉幸と廣瀬純によると、ソ連東欧崩壊の時期に至り、レーニン的切断が無効になってしまい、プロレタリアによる階級闘争もマイノリティの公理闘争も限界に突き当たりました。失敗の連続を前に「絶望的」な状況を打開するため、着目されたのがマジョリティの営みとしての「哲学」です。

 『哲学とは何か』(1991年)において、ドゥルーズ=ガタリは「犠牲者」を眼前にしたマジョリティの「恥辱」を俎上に載せます。そのため召喚されるのは、イマヌエル・カントの『啓蒙とは何か』、及び同書をめぐるミシェル・フーコーの注解です。カント、フーコーの論脈を受け止めて、ドゥルーズ=ガタリはプロレタリアの階級闘争、マイノリティの公理闘争に続く第3の主戦場を探ります。今やマイノリティの公理闘争は力ずくで制圧されているからです。

 そこでドゥルーズ=ガタリは、万人によるマイノリティ性への生成変化に先立って、私たちがマジョリティからの脱領土化を果たすことを求めます。

 「ゲットーからの脱領土化も許されないマイノリティは『死せる動物』と同一視され、この死せる動物を眼前にして『人間であることの恥辱』(マジョリティであることの恥辱)を感じる限りにおいて、『私たち』の方がまず、マジョリティ(等価交換と民主主義を享受する社会民主主義的『人間』)から自らを脱領土化してマイノリティ性への生成変化(『動物をなす』)に入る」。

 現存社会主義が崩壊し終焉を迎えつつあった時期、ドゥルーズ=ガタリは、プロレタリアとは何か、マイノリティとは何かではなく、文字通り「哲学とは何か」を問い返しました。それは単に理論のためではなく、革命実践の只中に身を投じるための賭けであったといって良いでしょう。

 佐藤と廣瀬によれば、「貧者や犠牲者を眼前にして何らかのユートピア概念を創造する哲学はすべて政治哲学である。ドゥルーズ=ガタリにとって重要なのは、そこで哲学者が、地平を知覚し、地平において自らを知覚し(地理哲学)、マジョリティであることの恥辱を感じるかどうか」が問われています。

 具体的にはNGOによる人道支援のように、マジョリティの側の人権や社会民主主義にのっとった地平の拡大(現在的形式)であり、その中で地平そのものを直観し、自己を知覚し直すことを通じての変容(未来的形式)です。そこで「混血で、劣っていて、アナーキーで、ノマドで、救い難くマイナーな種族」の上への再領土化が呼びかけられるのです。

 未来的形式での哲学の再領土化とは、来るべき人民、来るべき大地の上に哲学が自らを再領土化することです。それでは新たな人民概念、新たな大地概念とは何を意味するのでしょうか。過去からの革命、現在での革命、未来への革命という思想演劇はいかなる舞台で演じられるのでしょうか。
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