2020年03月27日 1618号

【シネマ観客席/Fukushima50 フクシマフィフティ/監督 若松節朗 2020年 日本 122分/原発事故を「日本スゴイ」のネタに】

 福島第一原発事故を描いた映画『Fukushima50』について書く。観る価値ゼロの映画ではあるが、あの原発事故を「日本スゴイ」の感動物語に仕立てているとあっては傍観するわけにはいかない。「記憶の改変」を狙った、だましの手口をみていこう。

感動の美談にすり替え

 往年の忠臣蔵映画のようなオールスターキャストで描く『Fukushima50』は一種の戦争映画である。吉田昌郎所長(彼だけは実名で登場)以下の原発作業員が、戦場さながらの事故現場で自らの犠牲をかえりみず戦い、故郷(ふるさと)・日本を救ったという筋立てだ。

 原作の門田隆将(りゅうしょう)(ノンフィクション作家)はこう語る。「私が本当に知ってほしいのは現場の人々がどれ程誠実で立派な日本人だったかということです」「日本は福島の人たちに救われたんですよ」

 安倍応援団のお仲間も同様の感想を述べている。ジャーナリストの櫻井よしこは「立派な日本人の精神に触れさせてもらった」と、映画の出来栄えを絶賛。劇中の原発作業員が「他者のために自分を犠牲にすることを誇り高く選び取り、そのとおり行動した」姿に感涙したのだという。

 コピーライターの糸井重里(御用学者とタッグを組み、「放射能安全神話」をふりまいたことで有名)も大号泣した一人だ。「いまの時代は『いのち』は無条件に守られるべきものとされるから、『いのちを捧げる覚悟』は描きにくい。映画『Fukushima50』は、事実としてそういう場面があったので、それを描いている。約2時間ぼくは泣きっぱなしだった」

 登場人物の気高い精神と勇敢な行動を讃える感動ストーリー。まさに日本の戦争映画によくあるパターンである。すなわち、特攻隊などを美化して描くことで、国家の戦争責任追及を忘れさせるというやつだ。

 こうしたペテンの手法を『Fukushima50』はそのまま使っている。福島第一原発事故が国策による人災であることを覆い隠し、「日本スゴイ」的な愛国心づくりの「教材」にしようとしているのである。

官邸に責任押しつけ

 では、「真実の物語」と銘打ったこの映画のウソをみていこう(たくさんあるのだが、絞って書く)。

 まずは、首相官邸の過剰介入が事態を悪化させたという描写だ。佐野史郎演じる「総理」はわめき散らすばかりで、現場の事故対応を妨害した―。マスメディアや自民党が広めた民主党政権攻撃のストーリーを本作品も採用している。

 しかし、「首相視察でベントが遅れた」は明らかに事実と違うし、吉田所長の「英断」とされる海水注入(官邸や東電本店の中止要請を無視して注水を継続した)にしても、原子炉の冷却には寄与しなかった。後のシミュレーションの結果、原子炉に届いた水はほぼゼロだったことが明らかになっている。

 こうした最新の科学的知見を映画は無視している。感動物語の盛り上げを邪魔するからだ。

津波対策の怠慢を無視

 もっとも悪質なインチキは、地震・津波対策を怠ってきた政府・東京電力の責任にまったく触れないことである。佐藤浩市演じる現場責任者が「俺たちは自然をなめていた」と述懐する場面があるが、現実は「なめていた」どころではない。東電は津波による全電源喪失の可能性を把握しながら、費用を惜しんで特段の対策を取らなかったのだ。

 その意思決定の中心にいたのが、ほかならぬ吉田所長である。彼は本店の原子力設備管理部長、つまり津波の想定や対策を担当する部署のトップだった。しかも「ゼニには厳しい」と自分で語る彼は、福島第一原発の現場が求める補修や保守点検作業の費用を、コスト削減のために大幅に切り詰めていた。

 吉田所長をモデルにした小説を書いた作家の黒木亮によれば、東電の技術者たちの一部から「亡くなった人を悪く言いたくはないが、安全設計を自分でゆるがせにしておいて、事故が起きたら想定外だと言い逃れ、悲劇のヒーローになっているのは許せない」といった声が上がっていたという。

  *  *  *

 エンディングを飾るのは満開の桜並木。「英雄」たちの奮闘によって日本は救われ、福島は立派に復興を成し遂げたと印象づけたいことが見え見えだ(石原慎太郎製作の特攻隊映画のラストとそっくり)。そして、東京オリンピックの聖火リレーが福島から始まることが字幕で紹介される。

 なんじゃこれは。廃炉作業が困難を極めていることや、放射能被害が今も人びとを苦しめている現実は完全スルー。まさに安倍政権への忖度まるだしの妄想劇場というほかない。これを歴史修正主義というのである。

    (O)

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