2020年04月17日 1621号

【非国民がやってきた!(328)国民主義の賞味期限(24)】

 6回にわたって佐藤嘉幸と廣瀬純によるドゥルーズ=ガタリの革命論の分析を見てきました。ドゥルーズ=ガタリの革命論のユニークさと切実さを知ることは、21世紀の現在、私たちの世界認識にとって重要な意味がありますが、ここでの直接の問題意識はドゥルーズ=ガタリの革命論それ自体ではありません。

 「国民主義の賞味期限(17)」の問題意識は、高橋哲哉の応答責任論や犠牲のシステム論にありました。高橋は日本軍性奴隷制、靖国神社問題、福島原発問題、沖縄辺野古基地問題といった、アクチュアルな問題に哲学のフィールドで取り組みました。高橋は、他者の呼びかけにいかに応答するかという基本スタンスを軸に、他者からの問いに応答する主体の在り方を追求してきました。それゆえ、植民地や占領下の被害者の声に耳を傾け、原発被災者や基地に抵抗する人々の訴えを受け止めて、議論を展開してきました。

 高橋の応答責任論の有効性に疑問を投げかけたのが、佐藤と廣瀬です。佐藤と廣瀬は「高橋哲哉は、2012年刊行の著作で琉球と福島を同時に論じ、両者に同形の『犠牲のシステム』を指摘しているが、『犠牲にされるもの』を眼前にし『責任』を自覚するよう市民に求める高橋の議論の有効性を、私たちは、少なくとも琉球と福島については認めない」と断じます。そして次のように論定したのです。

 「市民による反ファシズム運動(マジョリティによる民主主義回復闘争)と、琉球人による反米軍基地闘争、福島住民による脱被曝/反原発運動(マイノリティによる人権闘争)との間にも、利害の不一致、あるいはより根底的には、利害の対立があると言わねばなるまい。琉球民族や福島住民は、今日のファシズムと闘っているのではなく、近代市民社会、民主主義と闘っているのである。」

 佐藤と廣瀬の高橋批判をいかに読み解くか。これまで6回にわたるドゥルーズ=ガタリの革命論の分析の紹介は、佐藤と廣瀬の高橋批判の意味を理解するための基礎知識の確認作業だったのです。

 佐藤と廣瀬は、ドゥルーズ=ガタリの分裂分析に学び、その方法論を我が物として日本の現実に立ち向かい、「今日の日本における三つの戦線」を抽出します。ドゥルーズ=ガタリが三段階で論じた、歴史的に生じた三つの異質な運動が、「安倍自公政権下における今日の日本」では「すべて同時に共存し展開されている」のではないかと言います。

 『アンチ・オイディプス』におけるブルジョワジーからプロレタリアートが割って出る運動は、2000年代前半からプロレタリアートからプレカリアートが割って出る運動として現出しました。

 『千のプラトー』におけるマイノリティによる公理闘争は、沖縄の基地返還闘争や3.11以後の反原発闘争が主軸をなしています。

 『哲学とは何か』におけるマジョリティによる闘争は、アフガン・イラク反戦運動や、アラブの春を契機とする広場占拠運動、さらには安保法制反対運動において闘われてきたと言えます。

 佐藤と廣瀬は、高橋と同様に哲学を武器として、もっともアクチュアルな問題に正面から切り込んでいきます。
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