2020年05月01日 1623号

【非国民がやってきた!(329)国民主義の賞味期限(25)】

 佐藤嘉幸と廣瀬純は、「今日の日本における三つの戦線」を抽出します。ドゥルーズ=ガタリが三段階で論じた、歴史的に生じた三つの異質な運動が、今日の日本では「すべて同時に共存し展開されている」のではないかと言います。

 『アンチ・オイディプス』におけるブルジョワジーからプロレタリアートが割って出る運動は、2000年代前半からプロレタリアートからプレカリアートが割って出る運動として現出しました。小泉政権による新自由主義改革、雇用規制緩和に抗して、ワーキングプア、外国人労働者、ホームレス、生活保護受給者を含むプレカリアートの運動が本格化し、2008年には「反貧困」運動として展開し、2009年の政権交代につながりました。2012年に安倍政権が成立し、アベノミクス政策が始まると、「反富裕」のスローガンが掲げられました。

 反富裕は「反貧困」と連続しつつ、運動を「反貧困」から切断します。プロレタリアートからプレカリアートが割って出たのに引き続き、プレカリアートから分裂者が割って出るからです。反富裕は、貧者の富を収奪する富者への敵対を意味しますが、「富者」にはブルジョワだけではなく正規労働者も含まれるからです。しかし、反富裕にはもう一つの意味があります。豊かになりたい、富を蓄積したいという資本主義的欲望からの訣別が求められるのです。

 「プレカリアート運動は、文字通りの『アンチ・オイディプス』としてのこの『反富裕』によってこそ、資本主義をその下部から掘り崩す創造的過程の上に自らを再領土化するのである。」

 『千のプラトー』におけるマイノリティによる公理闘争は、沖縄の基地返還闘争や3.11以後の反原発闘争が主軸をなしています。

 3.11以後、福島県の放射能汚染地域に住む人々は放射能汚染の中での生活を余儀なくされています。多くの「市民」が被曝量を低減する努力を続け、原発事故訴訟原告団や原発事故被害者団体連絡会に結集した「市民」が法廷闘争を続けています。ここでは「市民」という言葉が用いられますが、実は被害者は、非汚染地域の人々と平等の権利を保障されていませんから、「市民」として扱われていないのです。

 佐藤と廣瀬は「彼らは『市民』を名乗りながらも、自分たちが『土人』としてしか扱われていないことを知っており、そうであるがゆえに彼らは、脱被曝/反原発運動を日常生活において展開するその直中で、マイノリティ性への生成変化の過程に入る」と言います。

 琉球民族による米軍基地反対闘争において、利害の水準では、マイノリティによる人権闘争が闘われています。市民であることの権利、人間であることへの権利が問われています。佐藤と廣瀬は「琉球民族は形式上は日本市民となったが、実質上は市民として扱われたことは一度もない。彼らは常に『土人』として扱われ、そのことが本土における民主主義(市民社会)の可能性の条件となってきた」と言います。

 佐藤と廣瀬は、松島泰勝の『琉球独立宣言』を引用します。松島は、琉球が日本から独立すれば、琉球に米軍基地を押し付けることができなくなり、日本自身が問題解決を迫られることになり、日本は植民地を失うことで、自分自身が「アメリカの植民地」である事実に直面し、「米国による植民地支配」をそのまま転嫁できる先としての琉球を失うことで、日本の民主主義は根底から危機に曝されることになると指摘します。

 佐藤と廣瀬は「民主主義は外部を常に必要としているのであり、闘う琉球民族が『媒介者』となって開始される新たな運動は、この認識のうちにすべての人民をその『主体』として巻き込むのである」と評定します。
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