2020年05月22日 1625号

【非国民がやってきた!(330)国民主義の賞味期限(26)】

 ドゥルーズ=ガタリの分裂分析に学んで現代日本の課題に挑む佐藤嘉幸と廣瀬純は、ドゥルーズ=ガタリの結論をではなく、方法を磨くことに力を注ごうとするがゆえに、ドゥルーズ=ガタリの歩みをさらに一歩進めようとします。この方法意識が捉える運動課題が、沖縄における反米軍基地闘争と、福島原発事故によって被災した被害者たちの権利回復闘争です。

 それは高橋哲哉が『犠牲のシステム――福島・沖縄』において論じた課題を、正面から受け止めて高く評価すると同時に、高橋の歩みをも乗り越えて批判の刃を差し向ける思想の闘いを必然化します。

 高橋が「戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犠牲のシステム」を抽出するのに対して、佐藤と廣瀬は「『犠牲にされるもの』を眼前にし『責任』を自覚するよう市民に求める高橋の議論の有効性を、私たちは、少なくとも琉球と福島については認めない」と断じます。

 「市民による反ファシズム運動(マジョリティによる民主主義回復闘争)と、琉球人による反米軍基地闘争、福島住民による脱被曝/反原発運動(マイノリティによる人権闘争)との間にも、利害の不一致、あるいはより根底的には、利害の対立があると言わねばなるまい。琉球民族や福島住民は、今日のファシズムと闘っているのではなく、近代市民社会、民主主義と闘っているのである。」

 佐藤と廣瀬は、近代市民社会こそが琉球民族や福島住民を抑圧していると主張します。民主主義の名による抑圧といかに闘うべきかが主題となります。これが第1の論点です。

 第2の論点として、佐藤と廣瀬によると、高橋の「犠牲のシステム」論は佐藤と廣瀬の議論と近いが、同じではないと言います。

 近いというのは、高橋における「犠牲にする者」は、佐藤と廣瀬が言う「マジョリティ」や「市民」に対応するからです。高橋の「犠牲にされるもの」は、佐藤と廣瀬の「マイノリティ」や「土人」に対応します。

 しかしここに微細な差異があると言います。高橋においては「犠牲にする者」と「犠牲にされるもの」の関係が問われますが、前者が「者」であるのに後者は「もの」と表現されます。「犠牲にされるもの」は「人間だけではない」からです。「犠牲にされるもの」には土人も動物も含まれるのです。

 高橋の議論は、ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』の「政治哲学」論とよく似ていると、佐藤と廣瀬は指摘します。高橋の鍵概念は「犠牲」と「責任」であり、これはドゥルーズ=ガタリが「恥辱」と同義のものとしている「責任」に対応します。

 それゆえ佐藤と廣瀬によると、高橋の「犠牲のシステム」論において、「もの」(動物)と「者」(人間)の二項を前提とすることになります。

 「人間である日本人が、動物である琉球人を眼前にして、人間であることの責任を感じる限りで、その責任に強いられて動物になる」という回路が組み込まれてしまうことになる。これが佐藤と廣瀬による高橋批判の第2の論点です。
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