2020年06月05日 1627号

【非国民がやってきた!(331)国民主義の賞味期限(27)】

 佐藤嘉幸と廣瀬純による高橋哲哉への批判は、運動の主体をめぐる批判となります。

 福島住民も琉球民族も「市民」であることを否定され、「土人」として扱われています。これに対して福島住民も琉球民族も「マイノリティ性への生成変化」に入ります。

 被曝を余儀なくされた人々が、政府や東電を相手に各地で法廷闘争を続けています。「相手に不条理な法廷闘争を続けることを通じて、彼らは自分たちが国家と資本によって汚染地域に『棄民』されていることを一点の曇りもなく意識化するのであり、その意識化を契機として、彼らはマイノリティ性への生成変化の過程の上に自らを再領土化するのである」。

 つまり福島に原発を押し付けてきたのは、東京など大都市圏の「民主主義」であり、福島は「外部」「植民地」として扱われ、構造的差別の下に置かれてきたのです。福島の住民が構造的差別を拒絶することは「我々はすべての原発を大都市圏住民に返還するが、しかし同時に我々は、この地球上のいかなる場所にも、新たな『福島』の創出を決して許さない」と声を上げるのです。

 琉球民族も同じ地点からの出発を強いられています。形式上は日本市民とされながら、実際に市民として扱われたことがありません。常に「土人」として扱われてきたのです。それこそが「本土における民主主義(市民社会)の可能性の条件」となってきました。基地建設反対の住民の意思は三度の選挙で明確に示されたにもかかわらず、政府はこれを無視して基地建設を強行します。法権利のレベルでは市民として承認しているように見せかけて、実際には市民として扱わない権力行使が続いてきました。

 「法権利の普遍性と権力行使の特殊性とのこの離接的な運動は、北による南の創出、すなわち、マジョリティが自らのシステム内にマイノリティを土人(抑圧対象)として包摂する際の典型的な統治手法の一つ」です。

 それゆえ佐藤と廣瀬は「人間であることへの実質的な権利が東京の設定する舞台の上では勝ち取れないのであれば、人権闘争はその舞台の外で展開される他ない。形式的な票と実質的な声との一致は、国際社会を新たな舞台として琉球民族自身が自らに与えるしかない」と言います。

 靖国問題でも福島原発問題でも沖縄基地問題でも、現地に赴き、人々との対話を繰り返してきた高橋の作法と思想に敬意を表しつつも、佐藤と廣瀬は高橋から距離を置きます。

 「福島にもたびたび赴いている高橋が、日常生活の直中で福島住民の展開する運動、独立を現実的選択として見据えつつ琉球民族の展開する闘争を知らぬはずはないし、それらとの共闘を望みこそしても、それらを否定するつもりなど決してないだろう。しかしなお、福島や琉球を『犠牲』というタームで語ることは、福島住民や琉球民族の闘いの存在を否認することと同じである。」

 高橋の立論には福島住民の闘争、琉球民族の闘争への言及がないのは偶然ではないと佐藤と廣瀬は指摘します。「琉球民族や福島住民は、今日のファシズムと闘っているのではなく、近代市民社会、民主主義と闘っているのである」という認識の意味が際立ってきます。
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