2020年06月12日 1628号

【新・哲学世間話 田端信広 コロナと国家 市民社会】

 コロナ感染第一波は多くの地域でさしあたり収束に向かい、「緊急事態宣言」もひとまず解除された。これを機会に、この「大騒動」のはらんでいた問題を振り返っておく必要がある。

 その問題とは、「緊急事態」を大義名分に、「国家」と「市民社会」の区別がなし崩しにされたこと、そして、為政者たちにその区別原則についての意識がまったく欠けていたことである。

 近代社会は「国家」と「市民社会」という異なった原理に基づく二つの領域からなっている。「国家」は国民の政治的統治を目的に、統治諸機構を使って「強制による支配」(A・グラムシ)を行使する領域である。それに対して「市民社会」は、市民が「私的な」関心や欲求や目的を実現するために自由に行動できる領域を指す。つまり「お上」の「強制的」支配の及ばない「私的な生活」領域のことである。この二つを区別することは近代社会の常識である。

 ところがこの間、「お上」(都道府県知事も含む)は、「要請」という名のもと、市民の「飯の食い方」「酒の飲み方」まで指示、強制し続けてきたと言える。その異様さが、「感染防止」のためにと、なかば容認されてきたきらいがある。

 だが、彼(女)らは自分たちが本来やるべき多くのこと(休業補償、医療体制の拡充、検査の徹底など)を十分に果たさないまま、市民に事細かく「行動変容」を迫ることには異常なほどに熱心であった。

 さすがに、西村担当大臣や小池都知事の連日の言動には、ネット上で「上から目線で」偉そうに指示ばかりするな、との批判が巻き起こった。こうした実感的反発には、「お上」が市民生活のあり方にまでいちいち口出しするな、自分たちの行動は自分たちでコントロールするという、健全な批判的意識が含まれている。

 権力主義的な政治家は、とかく市民の生活全般を「国家」のもとに統制したがる。かつて「鉄の女」と呼ばれたイギリスの首相サッチャーはこう言い放った。「社会など存在しない。在るのは国家と個人だけだ」。彼女にとっては「国家」が指示、強制することだけが社会のルールである。

 私も感染したくない、人に感染させたくない。そのために最大の配慮と努力をしたい。だからといって、「お上」から「飯の食い方」まで指図されるのは、まっぴらごめんである。

(筆者は元大学教員)
MDSホームページに戻る   週刊MDSトップに戻る
Copyright Weekly MDS