2020年06月19日 1629号

【非国民がやってきた!(332) 国民主義の賞味期限(28)】

 これまで佐藤嘉幸と廣瀬純による高橋哲哉への批判を見てきました。佐藤と廣瀬は運動の主体をめぐる高橋のスタンスに疑義を投げかけます。

 その際、佐藤と廣瀬はドゥルーズ=ガタリの分裂分析に学び、その方法論を我が物として、『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』を経て『哲学とは何か』に至るドゥルーズ=ガタリの議論の転回を踏まえつつ、日本の現実との対質の中でドゥルーズ=ガタリをも乗り越えようとします。佐藤と廣瀬は、ドゥルーズ=ガタリや高橋の議論をその高い地点で乗り越えるべく自らの議論を彫琢します。

 佐藤と廣瀬によると、高橋の「犠牲と責任」の議論は『哲学とは何か』におけるドゥルーズ=ガタリの「恥辱」と同義の「責任」を想起させると言います。ここで念頭に置かれているのはドゥルーズ=ガタリとジャック・デリダの「接近」です。

 デリダは20世紀末から21世紀初頭にかけてフランス思想を牽引した著名な哲学者・思想家です。脱構築、散種、差延等の概念を駆使して現代思想を塗り替えたデリダの著書には『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』『哲学への権利』『友愛のポリティックス』など多数ありますが、『他の岬』『有限責任会社』『ならず者たち』の翻訳者は高橋です。高橋の著作『デリダ――脱構築』はデリダ研究者の必読書です。

 佐藤と廣瀬によると、ドゥルーズ=ガタリは『哲学とは何か』において、動物あるいは犠牲者を眼前にする限りで人間が感じるものとして論じられる「責任」に接近した議論をしています。ここに佐藤と廣瀬は、ある種の「絶望」を見出します。というのも『哲学とは何か』はソ連東欧社会主義圏の崩壊の時期に執筆され、「レーニン的切断がその一切の効力を失った」という「情勢判断に由来する絶望」に刻印されているからです。

 それゆえ佐藤と廣瀬は「今日の琉球と福島について『犠牲のシステム』を語る高橋もまた絶望しているのだろうか」と問います。

 佐藤と廣瀬が琉球と福島について語る時、『哲学とは何か』ではなく、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』におけるマイノリティの公理闘争を援用します。「原発を首都圏住民に、米軍基地を日本人に、それぞれ『返還』しようと闘っている福島住民と琉球民族を前にして、絶望すべき理由など一つもない」からです。

 佐藤と廣瀬の結論は鮮烈です。「動物は人間に問いかけることしかできないが、土人は自分自身で問いを立て、自分自身でその答えを決定するのである。」

 「琉球人の闘争を介して日本人は否応無しに政治過程の中に投げ込まれ、そこで初めて、土人になるチャンス、すなわち、市民であることから自らを脱領土化し、土人性への生成変化の無限の過程の上に自らを再領土化するチャンスを得る。」

 私たち日本人はまだ土人でさえないのです。

<参考文献>
高橋哲哉『デリダ――脱構築』(講談社、1998年[講談社学術文庫、2015年])
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