2020年07月03日 1631号

【非国民がやってきた!(333)国民主義の賞味期限(29)】

 高橋哲哉の「犠牲のシステム」論に対する佐藤嘉幸と廣瀬純による批判を見てきました。いずれも福島原発事故や沖縄米軍基地問題の解決を求める立場を共有しつつ、運動の主体形成という点で一定の距離があることを確認しました。

 この議論を長々と紹介してきたのは、第1に、国民と非国民という分断と排除が横行する現代日本における立論の可能性と困難性を確認したかったためです。第2に、「国民主義の賞味期限」をめぐっても、立ち位置はさまざまに異なりうることを垣間見るためです。

 高橋と佐藤・廣瀬の間には、基本的な問題意識が共有され、しかもフランス現代思想への透徹した分析を介在させており、さらには現実の問題への実践的なアプローチ姿勢も共通であるにもかかわらず、立論方法についてこのような差異が見られるのです。

 このことを確認したうえで、「非国民がやってきた!」という本連載の問題意識に即して、重要な論点を整理してみましょう。すでに何度も引用したかと思いますが、佐藤と廣瀬は次のように述べています。

 「市民による反ファシズム運動(マジョリティによる民主主義回復闘争)と、琉球人による反米軍基地闘争、福島住民による脱被曝/反原発運動(マイノリティによる人権闘争)との間にも、利害の不一致、あるいはより根底的には、利害の対立があると言わねばなるまい。琉球民族や福島住民は、今日のファシズムと闘っているのではなく、近代市民社会、民主主義と闘っているのである。」

 ここに佐藤・廣瀬と高橋の立論のすれ違いの出発点があるのではないでしょうか。

 琉球民族や福島住民は、ファシズムと闘っているのではない。近代市民社会、民主主義と闘っている。佐藤・廣瀬の指摘を、その限りでは、高橋も受け容れ、共有するはずです。佐藤・廣瀬にはそのこともわかっているはずです。それでもなお、ここに両者の分岐点がある。これはいったいどういうことでしょうか。

 分岐を必然化するのは、「植民地主義」であることに留意しましょう。

 佐藤と廣瀬は、松島泰勝の『琉球独立宣言』を引用します。松島は、琉球が日本の植民地であることを前提に、琉球独立論を提示します。独立すれば、米軍基地を押し付けることができなくなる。日本は植民地を失い、自分自身が「アメリカの植民地」である事実に直面する。日本の民主主義は根底から危機に曝されることになります。

 佐藤と廣瀬は松島の指摘を受けて、「民主主義は外部を常に必要としているのであり、闘う琉球民族が『媒介者』となって開始される新たな運動は、この認識のうちにすべての人民をその『主体』として巻き込むのである」と論じます。

 民主主義と植民地主義が「両立」してしまう皮肉について、高橋も自覚的です。

 「私が福島について『植民地主義的』な面を言ったのは、原発が電力を消費する都会、福島の場合は東京・首都圏ではなくて、そこから離れた人口過疎の地域に原発を置いて、その地域に最大のリスクを負わせつつ、そこから離れた都会で多数の人が利益を享受するという『中央と周辺』の関係性があるからです。他方、沖縄の場合、明らかに『琉球併合』以来の植民地の歴史があるわけです。1972年に沖縄が復帰してからは沖縄県という一つの県に戻ったとしても、米軍基地政策において日本政府の態度はヤマトに対する時と沖縄に対する時とでは違っています。」

<参考文献>
高橋哲哉・前田朗『思想はいまなにを語るべきか』(三一書房、2018年)
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