2020年07月17日 1633号

【非国民がやってきた!(334)国民主義の賞味期限(30)】

 琉球民族や福島住民は、ファシズムと闘っているのではない。近代市民社会、民主主義と闘っている――佐藤嘉幸と廣瀬純は、沖縄への米軍基地押し付け、福島への原発押し付け、福島原発事故による被曝押し付けという「反民主的事態」が、ファシズムの手によってではなく、近代市民社会、民主主義の名によって引き起こされていること、それゆえ琉球民族や福島住民は民主主義との闘いを余儀なくされていると指摘します。

 高橋哲哉も、近代民主主義が植民地主義と両立してきた歴史を踏まえて、現代民主主義国家における植民地主義的政策の推進という事態が生じることを見据えています。民主主義と植民地主義は、西欧近代の所産であり、近代資本主義の培養器だったからです。

 ファシズムは近代民主主義の「鬼子」という比喩が用いられることがありますが、実は近代民主主義そのものが「鬼胎」にほかならないのです。

 高橋が「福島に対する植民地主義」を想定したことに対して、朝鮮植民地支配では「異民族に軍事的な強制併合」を行ったが、「福島に対する東京の関係」はこれとは異なると言う批判も見られます。この批判に、高橋は2つの応答を試みます。

 1つは、「福島は沖縄に対しては植民地主義的に支配する側だったし、沖縄は大日本帝国の一部としては朝鮮に対していわば植民者の側であった」ことです。その意味での差異を前提としつつ、「福島に対する植民地主義」を語ることができるのではないか。

 もう1つは、国民国家批判論で著名な西川長夫(立命館大学名誉教授)が、「植民地主義は国民国家そのものの形成原理だという認識を展開」していたことです。西川の『国民国家論の射程』『戦争の世紀を超えて』『植民地主義の時代を生きて』が参照されます。西川は、「先進国の中でマジョリティのマイノリティに対する関係を『新植民地主義』」ととらえる視座も共有していました。西川長夫の国民国家批判と<新>植民地主義研究については、本連載(308)国民主義の賞味期限(4)参照。

 こうして「非国民がやってきた!」という問題系は、「国民国家―民主主義―資本主義―植民地主義」の芋づるによって確証されることになります。それゆえ、近代日本の「民主主義」――大日本帝国の疑似民主主義と日本国憲法の戦後民主主義に通底する植民地主義を問うことが欠かせません。

 私たちはなぜ植民地主義者になったのか。私の中の植民地主義とは何か。それが次の課題となります。
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