2020年08月07日 1636号

【MDS コロナ危機を克服し社会を変える18の政策 ≪第1回≫ 利潤と市場原理ではなく連帯と民主主義で】

 MDS(民主主義的社会主義運動)は、『コロナ危機を克服し社会を変える18の政策』を公表しました。この『18の政策』は、グローバル資本主義を克服して民主主義的社会主義へ近づいていくための道筋を示したものです。また、現在のコロナ危機において緊急に必要となる政策が数多く含まれています。今号から始まる連載の第1回では、『18の政策』全体を貫く趣旨を説明します。以降、『18の政策』のうちコロナ危機に関連する政策について解説していきます。

 誰もが、コロナ危機の起きる前のように、マスク着用や「三密」など気にせず日常生活を送れるようになることを望んでいる。それは正当な希望であり要求である。

 しかし、コロナ危機よりも前の日常生活が実はとても脆(もろ)い基盤の上に成り立っていたことを、この危機は明らかにした。あの日常生活は、▽感染症が拡大しても統廃合のせいで検査ができない保健所▽重症の感染症患者を受け入れると物資・人員・予算の不足で医療従事者が苦難を強いられ赤字が拡大する病院▽仕事の喪失が住居の喪失に直結しうる派遣労働の増加▽生活が苦しくても支給を認めようとしない生活保護制度▽「奨学金」という名の借金をしないと通えない大学―といった現実に取り巻かれていた。危機よりも前の日常生活に回帰することは、各種の自然的・社会的災害が起きた際、政府と自治体からの支援を得ないまま個々人がまたもリスクにさらされることを意味する。

 私たちが必要としているのはそんなものではない。カネだけがモノを言うような制度と決別し、すべての人の命と権利が保障されているような新しい日常生活である。

「新しい日常」のいかがわしさ

 しかし、「新しい日常生活」という言い方はどこかいかがわしい。なぜなら、厚生労働省は緊急事態宣言の解除前に「新しい生活様式」を提唱し、東京都は宣言の解除後に「新しい日常」を送るよう都民に訴えているからだ。これらの「生活様式」や「日常」のどこが新しいのか。

 両者の内容は実は同一だ。それは要するにマスク・手洗い・うがいの徹底と「三密」の回避に尽きる(図)。コロナ危機の前と比べるなら、個人が自前で行なわなければならないことが増えるという点では新しいが、政治と行政が新たに取り組むことは何ひとつ挙げられていない。



 「緊急事態」が去ったあとの「新しい日常生活」として政府や東京都が提唱するのは、「ウイルスに感染したなら、それへの責任と費用をあなたが背負え。仕事と営業の自粛にともなう損益は、あなたが負担せよ」という究極の個人責任論である。

 それは、人びとの生活上のリスクを公的に引き受けるという社会保障の考えを意識的に拒絶している。なぜならそれは、生活の保障と被害への補償について口を閉ざしているからだ。そしてそれは、コロナ危機以前から、それどころか一九八〇年代から世界中に蔓延してきた新自由主義の個人責任論の焼き直しである。だから、これらは何ひとつ新しくない。

コロナ便乗型資本主義の新しさ?

 グローバル資本主義の現状において目新しく見えるのは、2008年のリーマン・ショックを超える世界的な不況の到来が警告されているにもかかわらず、世界中の株価が上昇し、世界の大富豪の富が急拡大しているという現実である。世界の純資産額で首位に立つジェフ・ベゾス(アマゾンの最高経営責任者)の今年7月の資産は1780億jで、年初から630億j以上増え過去最高を更新した。同様の事情は他の大富豪にも当てはまる(表)。



 格差の拡大それ自体はグローバル資本主義において新しくはない。しかし、前代未聞の世界的な不況の到来が不可避である中でも株価が上昇し、大富豪が肥え太るという現象は、異様だ。

 この現象は異様ではあるが、不思議ではない(本紙1634号3面参照)。コロナ危機のさなかにあっても、グローバル資本主義は従来と同じやり方を、中央銀行等による巨額の資金注入に助けられながらエスカレートさせているだけなのだ。アマゾン等の宅配サービスを担う労働者は感染対策が欠如した職場で「三密」労働を強いられる一方で、大富豪たちの持ち株の価格はテレワークで勤務し株や債券を売買するトレーダーたちによって法外な水準へとつり上げられていく。

 カナダ生まれの評論家ナオミ・クラインは2007年の著書で、「惨事便乗型資本主義」について語った(『ショック・ドクトリン』岩波書店)。彼女によれば、新自由主義者たちは災害やテロ、クーデターといった突然のショックを口実にして、経済と社会を自分たちにとって都合のよい方向へ改革しようとする。先に述べた、コロナ危機を食い物にして貧富の格差を極大化するグローバル資本主義の今日のあり方は、「コロナ便乗型資本主義」と言うに値する。

 この型の資本主義は、補償なき「営業・活動休止」を人びとに強要しながら、潤沢な公的資金の投入に支えられた株価操作のオンライン業務のみによって、過去に例を見ないような富と貧困の二極分化を生み出す。

 これはけっして新しい社会ではない。2008年のリーマン・ショック以降にすでに試され失敗した道であり、この道こそがまさに、自然災害ではなく社会的災害である今日のコロナ危機を招いたのだ。

 社会の新しいあり方は、規制緩和や民営化、緊縮財政、自己責任といった決まり文句を呪文のように唱えることしかできないトランプや安倍、小池らからは出てこない。新しい社会≠ヘ、利潤追求と市場と投機の論理を通してではなく、個々人が連帯と民主主義によって生活の保障と自己実現とを享受しうるものでなければならない。『18の政策』はそうした見地にもとづき、民主主義的社会主義の社会への展望と道筋を述べている。  ≪つづく≫
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