2020年08月28日 1638号

【新・哲学世間話(20) コロナ「危機」とは何か 田端信広】

 近頃「コロナ危機」という言葉をよく耳にし、眼にする。それは一般的には、ウイルス感染の直接的、間接的被害によって社会が、とくに経済が大打撃を受けている状況を指している。

 だが、それは「危機」という言葉の本来の意味を逸脱した使い方である。危機、crisisの元来の意味は、旧い体制が滅びつつあり、新しい体制がまだ生まれていない過渡的状態の「境目」のことである。だから、大抵の辞書は「危機」の意味を「分岐点」、「転換点」などと記している。

 まさに今、われわれが直面しているのは、この本来の意味での「危機」なのではないか。では、今はどんな「転換点」なのか。ひとまず、それは、人の「命」でさえ不平等に扱われている社会から、せめて「命」だけは平等に扱われる社会への転換点である、と言っておこう。

 今年の春頃、アメリカの各メディアは、黒人のコロナ感染率と死亡率が異常に高いことをたびたび報じた。それによれば、シカゴで黒人の占める人口比は約3割であるのに、感染者数比は約5割。死亡者数比は7割であった(4/6時点)。そのシカゴの在るイリノイ州全体でも、黒人の人口比は15%であるのに、感染者数比は28%、死亡者数比は43%と報じられた(5/6時点)。他の地域についても、類例のデータはいくつも挙げることができる。

 当然、ウイルスは人種差別をしない。にもかかわらず、黒人にウイルスの被害が集中しているわけは、少し想像を巡らせばわかるだろう。黒人は社会的に、より多く感染し、死亡せざるをえない状況に置かれているということである。そして、事は黒人差別にかぎらないだろう。他のさまざまな格差と差別についても、程度の差こそあれ同じことが言えるだろう。

 つまり、われわれの社会では、社会的格差と差別が「命」の格差と差別に直結しているのである。コロナ禍があぶり出したのは、まさにこのことである。

 「生活」の格差が「生命」の格差にまで浸透している―そのような社会を終わらせ、「命」が格差づけられることのない社会への「転換」を図らなければならない。このことこそ、コロナ禍からわれわれが学ぶべきことであるように思う。

 「コロナ危機」を、本当の意味での「危機」として捉え、体制の「転換点」を展望しなければならない。

  (筆者は元大学教員)
MDSホームページに戻る   週刊MDSトップに戻る
Copyright Weekly MDS