2020年09月04日 1639号

【非国民がやってきた!(337)私の中の植民地主義(3)】

 「戦後民主主義」の旗手ともいうべき思想家、丸山眞男は実に多面的で、多彩な理論家でした。その丸山眞男が戦後民主主義の理論的支柱と見なしたのが福沢諭吉でした。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」

 あまりにも有名な福沢の『学問のすすめ』冒頭の句です。私たちは、福沢がこの言葉で平等思想を説き、民主主義の基礎を確立しようとしたと教わってきました。丸山眞男の創案であり、戦後民主主義の合言葉です。

 つまり、私たちは「丸山眞男=福沢諭吉の世界」を生きています。福沢から丸山を通じて、近現代日本に自由と平等が根付いた。この壮大な虚妄の中に、私たちは閉ざされてきました。

 私自身の記憶をたどり直しても、小学校高学年の時にはすでに、福沢の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」を知っていました。どの教師に教わったのかまでは覚えていません。いつの間にか、自然に教わって、私の脳内に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」が住み着いていました。中学高校時代に、このことに疑いを抱いたことはありません。

 それどころか、大学時代にも何も疑問を持たなかったと思います。大学院時代には、私は植民地主義批判を意識的に学び、理論的に把握しようとしていましたから、福沢の歴史的限界を知っていました。福沢が自由や平等の担い手ではなく帝国主義のイデオローグであり、朝鮮人差別の元凶であると知っていました。

 にもかかわらず、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」について詰めて考えることをしませんでした。私の中に、帝国主義の福沢と自由主義の福沢が矛盾なく同居していたのです。これは私の矛盾であり、限界でした。植民地主義批判をしながら、植民地主義者・福沢諭吉の幻像に目を眩まされていたのです。丸山眞男の掌の上で思考していたわけです。

 迷妄に気づかせてくれたのが安川寿之輔でした。安川の『福沢諭吉のアジア認識』は私にとって衝撃的な著作でした。福沢のアジア蔑視、朝鮮人差別の実相を徹底的に暴き出す安川の研究を知った私は、当時、一面識もなかった安川にいきなり連絡を取り、名古屋から東京に招いて講演会を開きました。高名な教育思想史研究者であるにもかかわらず、不躾な依頼に応えて安川は講演を引き受けてくれました。

 その後、安川は『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』、『福沢諭吉と丸山眞男』、『福沢諭吉の教育論と女性論』を続々と公刊して、「丸山眞男=福沢諭吉の世界」が神話にすぎないことを論証しました。

 アジア認識、戦争論、天皇制論、教育論、女性論のすべてを通じて、福沢は見事な一貫性と体系性を持った差別主義者です。だからこそ、大日本帝国憲法の絶対天皇制の時代の日本を代表する思想家だったのです。福沢を自由主義者・平等主義者に仕立てた丸山の手品に騙された私たちが愚かでした。
 
<参考文献>
安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、2000年)
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