2020年10月02日 1643号

【非国民がやってきた!(339)私の中の植民地主義(5)】

 安川寿之輔は、福沢諭吉の「一身独立して一国独立する」に疑問を投げかけます。

 丸山眞男は、福沢の「一身独立して一国独立する」という言葉に「民権論と国権論との内面的連関」を発見し、次のように述べています。

 「個人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見事なバランスを保っている。それは福沢のナショナリズム、いな日本の近代ナショナリズムにとって美しくも薄命な古典的均衡の時代であった。」

 こうして福沢は戦後民主主義の旗手とされます。「一身独立して一国独立する」は、個人的自由、国民的独立、国際的平等の「見事なバランス」をとっているのですから、民主主義と平和主義の原理と言えることになります。

 「美しくも薄命な古典的均衡の時代」という荒唐無稽のレトリックによって、帝国主義者・福沢こそが民主主義と平和主義の担い手に任命されたのです。

 安川によれば、これは丸山の「誤読」にすぎません。福沢は「一身独立」と「一国独立」のバランスをとったのではなく、「一国独立」を優先したからです。福沢の主著の一つ『文明論之概略』終章において、「自国の独立」確保が最優先の「最後最上の大目的」とされています。「先づ事の初歩として自国の独立を謀り其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」というのです。「一身独立」は「第二歩」と先送りしています。

 それにもかかわらず、丸山は二つの課題の「見事なバランス」「美しくも薄命な古典的均衡」と美辞麗句で粉飾します。

 安川は、「一身独立して一国独立する」の意味は、福沢自身がどのような意味で論じたかに基づいて理解すべきであると言います。丸山独自の「一身独立して一国独立する」を展開するのは自由ですが、それを福沢の思想と主張するのは誤りです。

 福沢の著作を見ると、「一身独立」は「報国の大義」の局面で「お国のためには命も財産も惜しまない」という報国心の文脈で論じられています。

 丸山の誤読はこれだけではありません。福沢の「独立自尊」を、丸山は「市民的精神」と読み替えて「儒教乃至儒教的思惟に対する闘争」と位置付けます。福沢が「教育勅語」の発布について論じていないことも加えて、丸山は福沢の反儒教主義と市民的精神を仮構します。

 「独立自尊」という言葉だけを抜き出せば、市民的精神とつなげることもできそうに見えます。しかし安川によると、「独立自尊」は福沢の「修身要領」の中心命題です。

 「凡そ日本国に生々する臣民は男女老少を問はず、万世一系の帝室を奉戴して其恩徳を仰がざるものある可らず。」

 福沢の「独立自尊」は「天皇の下部(しもべ)としての臣民」の忠孝仁義、忠臣孝子のことであり、天皇への自発的な「忠誠心」を指す言葉です。市民的精神とは無縁です。

 「天は人の上に……」「一身独立」「独立自尊」のいずれも、近代個人主義を否定し、天皇制を支える儒教的身分制思考を「下から」支える「独立」と「自尊」を説く支配の言語です。

 丸山はなぜ、このような強引な誤読を積み重ねたのでしょうか。安川の筆鋒は丸山自身に向けられます。
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