2020年10月16日 1645号

【非国民がやってきた!(340)私の中の植民地主義(6)】

 安川寿之輔は、福沢諭吉を民主主義者に仕立てた丸山眞男の「福沢=丸山神話」を解体するために、福沢の著述と人生を読解すると同時に、丸山の著述と人生を俎上に載せます。

 福沢のアジア蔑視とヘイト・スピーチは、大日本帝国の武力行使と侵略そのものを正当化する実践的働きをしました。

 福沢を民主主義者と誤認した丸山の政治学も、単に言説として存在しただけではなく、戦後民主主義の在り方を直接左右する実践的働きをしました。

 福沢のアジア侵略路線を、丸山の福沢研究がなぜ一貫して問題にしないのか。この謎に迫ります。丸山は、福沢のアジア蔑視の著述を系統的に無視して、ご都合主義的なつまみ食いをします。丸山は、福沢の「市民的自由主義」から「帝国主義」への転向を認めますが、その「転向」の論理と必然性を説明できません。

 その背後には「『戦後日本思想界の天皇』とまで評される丸山眞男個人の、アジア太平洋戦争期における侵略戦争への明白な加担という、具体的な彼自身の戦争責任の問題」があるのではないでしょうか。

 安川は、丸山の論文「福沢に於ける秩序と人間」(慶応大学『三田新聞』1943年11月25日号)に注目します。これは学徒出陣に関する論文だからです。

 学徒出陣とは、1943年、兵力不足を補うため大学生などを在学途中で徴兵して、出兵させたことを指します。1943年10月1日の東条英機内閣による「在学徴集延期臨時特例」が根拠です。同年10月21日、7万人の学徒を集めて明治神宮外苑競技場で開かれた最初の出陣学徒壮行会は有名です。

 丸山はこの論文で、福沢の「一身独立して一国独立する」を「国家を個人の内面的自由に媒介せしめた」定式であるとし、福沢を「個人主義者たることに於てまさに国家主義者だった」と飛躍し、「わだつみ学徒兵」に向かって、「学徒出陣を学生『一人々々』が主体的に『国家の……運命』として担う、『個人個人の自発的な決断』」を求めました。学生たちを戦場に送り出す積極的役割を果たしたと言えます。

 戦後、丸山はこの論文を自著に収録する際、釈明も弁解もしていません。その意味では潔いと言えるかもしれません。しかし、反省も自責の弁も述べていないのです。内心でいかに反省したかはわかりませんが、反省が表明されることはありませんでした。安川は「丸山は生涯固く口を閉ざしているようである」と書きます。

 安川はわだつみ会(日本戦没学生記念会)事務局長経験者です。1935年生れの安川は戦場に送られることはありませんでしたが、もし戦況が長引けば、丸山の指導に従って「国家を個人の内面的自由に媒介せしめ」て「個人個人の自発的な決断」を余儀なくされて戦場の花と散ったかもしれません。丸山の思想と学問とは何だったのかと問うのも当然です。
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