2020年10月30日 1647号

【ETV特集/基地の街にロックは流れて〜嘉手納とコザの戦後史〜/NHK沖縄放送局制作 本編59分/歴史を無視する菅首相への問いかけ】

 今回は9月26日に放送されたETV特集『基地の街にロックは流れて〜嘉手納とコザの戦後史〜』を取り上げる。菅義偉(すがよしひで)首相がやらかした暴挙(日本学術会議への人事介入)のせいで紹介するのが遅れてしまったが、沖縄の基地問題の原点を知る上で、必見のドキュメンタリー番組である。

基地とともに生まれ

 「政治家は身を隠す。やつらがこの戦争を始めた。なぜ奴らは戦争に行かないのか。奴らは貧しい者にすべてを押しつける」

 ロック・バンド「ブラック・サバス」の初期曲「War Pigs」の一節である。歌うのは、オキナワン・ロックを代表するミュージシャンの宮永英一さん(69)。米軍嘉手納基地からベトナムなどの戦地に向かう兵士の前で演奏してきた。

 宮永さんは1951年生まれ。父は嘉手納基地所属の米兵で朝鮮戦争に従軍した。宮永さんが小学生のときに米国へ帰国し、以来音信不通だ。母は奄美群島・徳之島の出身。米兵相手のバーで働くため、沖縄に移り住んできた。

 嘉手納基地の前身は旧日本軍の「中飛行場」である。沖縄を占領した米軍はここを接収し、ほぼ40倍の大きさに拡張した。いくつもの集落が丸ごと基地の中に消えた。人びとに残された生きる手段は基地関連の仕事だけだった。

 基地の城下町となったコザ市(現在の沖縄市)には、特飲街と呼ばれる売買春黙認地域があった。多くの女たちが貧困に苦しむ家族を養うために集まってきた。離島出身者が特に多かったという。宮永さんはこの特飲街で洋楽と出会った。

 嘉手納基地は朝鮮戦争やベトナム戦争の出撃拠点となり、コザの街は「戦争特需」に沸いた。その一方で、住民は深刻な基地被害に苦しめられた。少女が米兵に凌辱され殺された。嘉手納基地を離陸した戦闘機が小学校に墜落し、子どもたちが焼け死んだ。原爆搭載可能な爆撃機B52が嘉手納基地内に墜落し炎上した。酒酔い運転の米軍車両に主婦が轢き殺された。

 相次ぐ事件・事故に対し、住民が法の裁きを求めても、治外法権のごとく振る舞う米軍には届かない。たまりにたまった人びとの怒りは、コザ市で発生した米兵の交通事故をきっかけに爆発した。今から50年前のコザ事件である―。

菅・翁長会談での発言

 本作品はNHK沖縄放送局の制作。米兵を父に持つミュージシャン、基地に土地を奪われた住民、米兵相手のバーの元従業員、現役兵でありながら反戦を訴えた米兵など、さまざまな人びとの人生を交錯させて沖縄の戦後史を活写する手法は、真藤順丈の直木賞受賞作『宝島』を思わせる。

 初回放送は9月26日。制作サイドが意図したわけではないのだろうが、菅政権の発足直後のオンエアとなった。まるで、歴史に根ざした沖縄の訴えを突き放した「前科」のある新首相に説いて聞かせるように。

 詳しく説明しよう。2015年9月、名護市辺野古の新基地建設をめぐる政府と沖縄県の集中協議が行われたときのことである。翁長雄志(おながたけし)知事(当時)は沖縄民衆が歩んできた過酷な歴史を語り、基地問題への理解を求めた。だが、官房長官として協議に参加していた菅の反応はそっけないものだった。

 「私は戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からない。19年前の日米合同会議の辺野古が唯一というのが私の全てです」。問答無用の拒絶である。さらに、「戦後の強制接収が基地問題の原点」という翁長知事の主張には「賛同できない」と言い放った。戦後の日本はみんなが苦労した、というのが菅の言い分である。要は、“沖縄だけ文句を言うな“と言いたいのだ。

 菅には「ほとんどの日本人が沖縄の歴史を知らないし、興味もない」という確信があったのだろう。そうでなければ、反発が怖くてこのような暴言は吐けない。今も続く沖縄の基地支配は「本土の無関心」が支えているのである。

沖縄に自己決定権を

 「沖縄人だって人間じゃないか。馬鹿野郎」。1970年12月20日未明。コザの路上は人びとの怒りの炎で包まれた。米軍憲兵の威嚇発砲に怒った民衆が米軍関係車両を次々に横転させ、火を放ったのだ。それはまさに民衆蜂起であった。

 宮永さんは今、自らのロックに乗せて、コザの街の歴史を伝えようとしている。「昔のことだと忘れていいのかな、と。これはいつまでも続くよ。戦争は決して過去のものじゃない」。歴史を「わからない」で済ませる菅を「苦労人」ともてはやす連中に聞かせてやりたい言葉である。

 ベトナム反戦運動に加わった当時の米兵は「沖縄に自己決定権を」と訴えていた。この主張は今も、今こそ生きている。  (M)

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