2020年11月06日 1648号

【軍都広島の姿にふれる 東アジアの平和のために 岩国基地と被爆地フィールドワーク】

 極東最大の米軍基地岩国と被爆地広島をめぐるフィールド・ワークが10月24、25日開催された。テーマは軍都(軍事拠点)広島に見る日本の加害性。東アジアの平和を築くためには欠かせない視点だとZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)広島が企画した。広島の他、京都・大阪・兵庫・岡山から約30人が参加した。

 「フィールド・ワークのタイトルを東アジアの平和のためとした。それにはアジアの仲間と共通する歴史認識を持つ必要がある」とスタッフの日南田成志さんは語る。つまり、日本によるアジア侵略の歴史的事実を踏まえることだ。

 1日目の夜、「在日コリアンからみた被爆地広島」と題する講演会は「被爆地広島」の加害性を問うものだった。講師は在日3世の李周鎬(リ・チュホ)さん。NPO法人共生フォーラムひろしまの理事長でもある。李さんの祖父母は約100年前に朝鮮南部の金海(キメ)から広島に来た。親族は全員被爆した。李さんは日本が戦争責任について明確に「ケリ」を付けなかったことが、「日本の民主主義の底の浅さ、差別の温存につながっている」と分析。「米国には従属しながら、アジア諸国には負けを認めず、帝国主義を継続している」と指摘する。

 李さんは「よく『戦争はいけない』と言われるが、酷い目にあったからなのか」と問いかける。「被爆被害とともに日本が朝鮮を植民地にしたことをともに語ることを忘れてはならない」

 同様の指摘が平和記念公園のフィールド・ワークでもあった。元高校教員で平和ガイドの平原敦志(あつし)さんは、慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しません」という言葉の主語を問題にした。原爆投下が人類全体の責任にされていないかと問う。誰が、どんな過ちをしたのか。あいまいなままだ。

 米軍がいくつかの原爆投下候補地から広島を選んだのは、その威力を測定するのに都合の良い地形や気象条件からだが、広島は軍事物資の製造工場が集積する軍事拠点だった。

 ガイド役の広島なかまユニオンの藤原浩修(ひろのぶ)さんが旧陸軍被服支廠の前で解説。日清戦争出兵拠点であった広島の姿から説き起こした。1894年、朝鮮への侵略戦争の総司令部として大本営が東京から広島に移され、軍事予算を採択する臨時帝国議会が広島で行われた。鉄道による国内物資輸送と宇品(うじな)港からの海外出兵。その利のよさが軍都広島を拡大強化していく。

 敗戦直前の最盛期には約7千人の労働者が軍服や軍靴を製造していた被服支廠。鉄筋コンクリート造りレンガ張り構造の工場4棟が被爆建物として残されている。単なる被爆建物では被害の強調に過ぎない。アジア侵略を支えた施設として保存が求められている。

改めて問う戦争責任

 では現在、戦争への動きにどれほど意識を向けているのか。岩国基地のフィールド・ワークがその困難さを改めて教えてくれた。

 米海兵隊岩国基地は、市民の要求だった滑走路沖合移設を逆手に取り、1・5倍近くに拡大した。その埋め立て工事の土取場となった愛宕山には、米兵の福利厚生施設として8千人収容の野球場や国際大会ができるレベルの陸上競技場などスポーツ・コンプレックスが作られた。この施設が市民に開放され、日本政府が提供した軍事施設であることを忘れさせる。あたごやま平和研究所代表の田村順玄さんは「国内唯一の鉄条網のない米軍施設。岩国基地の出城」と表現した。

 侵略先の戦場を見れば加害性は実感できる。だが、国内にいる限り、かつての戦争は原爆や空襲被害に限られる。今この岩国基地から飛び立つ米軍戦闘爆撃機が中東で殺戮と破壊を行っていることに、スポーツ施設を利用する限りでは思い至ることは困難だ。だからこそ、基地の実態を知り、在日差別の中に植民地支配への無反省を見、歴史から加害の事実を知る必要がある。そんな思いを強めたフィールド・ワークだった。

 「広島で生まれ育ったが、新たなことを知った。軍都広島の姿を若い世代と共有する取り組みを進めたい」。ZENKO広島の若いスタッフはそう感想を述べた。



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