2020年11月20日 1650号

【菅首相が掲げる「自助・共助・公助」/源流をたどると竹中平蔵がいた/弱者切り捨て、新自由主義の論理】

 菅義偉(すがよしひで)首相が国づくりの基本に掲げる「自助・共助・公助」の評判がすこぶる悪い。弱者切り捨ての論理であり、政府の責任を放棄するものだというのである。そのルーツをたどると、菅が指南をあおいできた人物の名前が浮かんできた。新自由主義の伝道師・竹中平蔵その人である。

要するに自己責任論

 「私が目指す社会像は、『自助・共助・公助』そして『絆』です。自分でできることは、まず自分でやってみる。そして、家族、地域で互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りする。そうした国民から信頼される政府を目指します」

 菅義偉首相は初めての所信表明演説(10/26)をこう結んだ。自民党総裁選で打ち出した考え方を、改めて政権の目指す国家像として位置づけたことになる。

 「自助・共助・公助」は防災の文脈で使われてきた言葉だ。災害が起きた時に自力で避難したりするのが自助、避難所などで互いが助け合うのが共助である。基本はあくまでも公的支援=公助であり、自助や共助はそれにつなぐための一時的な手段にすぎない。

 ところが、菅は「自助、共助、公助」という順番を強調する。政府の役割は人びとの命や暮らしを守る公助にあるはずだが、彼が目指す社会の基本は自助であり、公助は例外的措置ということになるらしい。

 その意味を田中信一郎・千葉商科大学准教授は次のように解説している。「自分のことを自分で守れなければ切り捨てられても仕方ない、という新自由主義的な発想です。国は最低限のことはするけれど、生活の質や尊厳までは守りません、という“切り捨ての論理”になるのです」(9/4配信ハフィントンポスト)

 何のことはない、これは新自由主義者が大好きな自己責任論である。「そして絆」と付け足したのは、切り捨ての印象をカムフラージュするためであろう。

自民党は党是に

 国家政策の基本に「自助・共助・公助」を置く考え方は菅のオリジナルではない。2010年に改定された自民党の綱領には以下の文言が盛り込まれている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」

 このように、むき出しの弱肉強食イデオロギーである新自由主義は今の自民党の党是である。菅も当然そうだ。「雪深い秋田の農家出身」を売りにしているため誤解されやすいが、決して田中角栄的な利益分配型の政治家ではない。

 「自助・共助・公助」の源流をさらに探ると、経済戦略会議(小渕恵三首相の諮問機関)が1999年2月に発表した答申「日本経済再生への戦略」が浮かび上がってくる。

 答申は「過度に平等・公平を重んじる日本型社会システム」が日本の経済成長を妨げているとし、「個々人の自己責任と自助努力」をベースとした「健全で創造的な競争社会」を構築することが必要だと主張した。この提言は小泉政権に受け継がれ、派遣労働の原則自由化や富裕層減税といった政策が実行された。

 この答申を経済学者として起草し、閣僚となって実行を指揮し、企業経営者として恩恵にあずかった人物がいる。竹中平蔵(東洋大学教授/パソナグループ取締役会長)だ。菅首相とは、郵政民営化を主導した総務大臣(竹中)と副大臣(菅)という関係だ。

 現在でも菅は竹中と定期的に会い、直接助言を受けている。「自助・共助・公助」というキャッチフレーズは、竹中伝授の新自由主義政策を進めるという、菅なりの決意表明なのだ。

憲法が規定との嘘

 自民党二階派の伊吹文明元衆院議長は突拍子もない論理で「自助・共助・公助」を弁護した。いわく「憲法が国民に自助努力を課している。自助ができるのに『私はできない』と言う自称弱者が次々出てきたら、社会は成り立たなくなる」(10/29産経)。

 伊吹の解釈では、憲法12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という文言が、国民に自助努力を義務づけた規定になるらしい。

 冗談ではない。12条のこのくだりは、憲法が保障した自由や権利は「人民の不断の監視・警戒によって維持されねばならない」(GHQ草案)という意味である。「油断していると狡猾な権力者に骨抜きにされるぞ」ということなのだ(伊吹の発言がまさにそう)。

 そもそも憲法は国家権力の行使に歯止めをかけるものであり、国民を縛るものではない。憲法が自助努力を課しているだなんてデタラメをよく言えたものだ。菅一派はいつもそうだ。見え透いた嘘をつき、説明抜きで押しつける。 (M)

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