2021年01月15日 1657号

【非国民がやってきた!(346)私の中の植民地主義(12)】

 1964年の東京オリンピックを眼前にした谷川雁は「逆流してくる未来の残酷さ」に警鐘を鳴らしました。オリンピック後に作家の小田実は「浮薄なナショナリズムの蔓延」を見出しました。鵜飼哲は次のように描出します。

 「小田が捉えたポスト五輪のナショナリズムの特徴は、戦争が開いた国家原理と個人体験の『裂け目を結び合わせる便利な接着剤としてのナショナリズム』である。このタイプのナショナリズムでは、国家原理と個人体験が双方から、『個別的な被害者体験、加害者体験の重みの下に普遍原理が存在する』ことの発見を通して(再)統合の(不)可能性を模索、検証する困難な過程がまるごと捨象される。」

 日本国憲法前文の平和主義と平和的生存権の「普遍性」にもかかわらず、これを都合の良い跳躍版として、個人の被害者体験を国家の被害者体験にすり替える詐術が作動します。同時に植民地人民の被害者体験の消去が完遂されることで、戦後平和主義と民主主義という強靭なメビウスの輪が仕立て上げられるのです。象徴天皇制を支える国民がメビウスの輪から容易に抜け出せないのは当然です。

 2020年に予定され、2021年に「延期」された東京オリンピックとは何か。鵜飼はいくつもの論点を枚挙します。

 第1に、そこで踏みにじられたのは被災地の地道な「再生」への努力です。「復興」の政治的簒奪です。

 第2に東京地域住民の生活権が侵害されます。生活空間の再編成と都民税の浪費です。

 第3に「優生思想・能力主義に抗して生きる障害者の人権が愚弄の対象」となります。

 第4に列島住民全体の基本的人権が損なわれます。監視社会化の激烈な進行です。

 第5に将来の世代の決定権が蔑ろにされます。

 第6に少数民族の自己決定権も失われるでしょう。日本政府がアイヌ民族と琉球民族をいかに処遇しているかを考えれば、セレモニーと見世物化の危険性を指摘しておかなければなりません。

 第7に鵜飼は「学校」を取り上げ2021年の「少国民」の創出・育成を危惧します。

 これらの背景には「天皇制とオリンピック」という統治技術が存在します。五輪とは資本主義、帝国主義、植民地主義、優生主義、人種主義、絶対主義をはじめとする権力の絢爛豪華なショーウインドウだからです。鵜飼は、オリンピックの祖であるクーベルタンの徹底した人種主義と植民地主義を丹念に解明しています。

 こうして日本型祝賀資本主義批判を敢行した鵜飼は「まつろわぬ者たちの祭り」を透視します。それでは「まつろわぬ者たち」とは誰のことでしょうか。
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