2021年02月05日 1660号

【哲学世間話(24)田端信広 処罰導入の根本的意味を考える】

 「行動変容のお願い」は、いつからか「自粛の要請」という言葉に変わった。これらにはまだ、少なくとも言葉の上では、個人の行動の仕方は最終的には各人の自主的な判断にゆだねるという意味合いが残っていた。

 もちろんそれは「言葉の上」での話であって、「お願い」も「要請」も、実質上は「半ば強要」として機能したのではあるが。とくにわが国特有の「社会的同調圧力」の強まりとともに、それは「強要」になった。

 それでもまだ、有形無形の「強要」を拒否する権利は個人に残されていた。拒否しようが、処罰されることはなかった。

 だが、今回の「コロナ特別措置法」の「改正案」で事態は根本的に変えられようとしている。公権力による私権の制限が「合法化」されるのだ。その「指示」「命令」を拒否すれば、処罰されることになる。ある根本的転換が引き起こされようとしているのである。

 私権の制限というのは、私が他人の権利を侵してまで好き勝手に行動する権利が制限されるというのではない。そんな権利は、初めから存在しない。侵されようとしているのは、移動権、自由権、生存権など、わたしと他者に共通する基本的権利なのである。

 これについて「私権の制限は最小限に」というもっともらしい意見は、ありていに言えば、「やりすぎてはダメだが、ある程度はしかたがない」ということである。この「常識」論には、権力の都合による私権の制限は原理上許されないという基本的認識が欠けている。だから、「状況が悪化」すれば、「ある程度」の範囲がずるずる拡大されるのも容認することになるだろう。

 もう一つ、「非常事態」だから、私権の制限も「仕方がない」という別の「常識」論も聞こえてくる。だが、安直にそう語る前に、パンデミックと医療崩壊はなぜ引き起こされたのかを問いただすべきであろう。

 内閣や各知事の無為・無策がそれをもたらした根本要因であるのを明らかにするのに多言を要さない。彼(彼女)らが、自分たちの失策になんの責任も感じないまま、失策の結果を市民の権利の制限によって埋め合わそうとするのが今回の「特措法改正案」である。

 腹立たしいのは、為政者たちが「非常事態」の招来になんの責任も感じていないばかりか、強権的な私権の制限になんの痛痒(つうよう)も感じていないことである。

(筆者は元大学教員)
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