2021年02月26日 1663号

【非国民がやってきた!(349)私の中の植民地主義(15)】

 日本社会では99%のマジョリティが日本国民です。民族的言語的マイノリティは1%にすぎません。性差別、障害者差別、部落差別など多様な要因から差別がなされます。女性は人数から言えば半分ですが、政治的社会的決定から排除されてきました。政治や文化は民族的言語的に「日本人」という自覚を持つ男性・健常者・高学歴のエリート集団によって形成されてきました。政治家、専門家、官僚、学者、教師、ジャーナリストが社会的価値観を決定してきたのです。

 90%が日米同盟を支持し、過去の戦争犯罪を隠蔽し、ヘイト・スピーチが横行する社会――この社会を形成してきたのが日本国民であり、そこでは「差別」は存在しないことになります。現実に差別があり、マイノリティや先住民族が抑圧され排除され、悩み傷つき苦しんでいても、99%のマジョリティにとって、それは「存在」しないのです。

 差別のない素晴らしい日本で、国民は等しく象徴天皇制を支え、日本を自画自賛していれば足ります。もともと「差別の制度化」である天皇制が「天皇の下では誰もが平等」という「歪んだ平等システム」として受容されます。日米安保条約も「栄光の大日本帝国」も「高度経済成長の先進国」も「人類の宝・憲法9条」も「天皇の下で平等」を支えるサブシステムとなります。

 社会的価値観が政治的経済的「実力」と「制度」によって確立すると、枠組みの外で生きることは容易ならざる事態となります。誰もがあらかじめ定められた枠組みの中に置かれていますから、順応する以外の選択肢はありません。まつろふこと=「服ふ/順ふ」こと、服従し、従うことは人間的自然です。どの国、どの社会に生まれても同じことが言えますが、とりわけ同調圧力の強い日本で「生きる」ことは「国民になる」ことであり、「服ふ/順ふ」ことです。

 その欺瞞に気づき不正義を見出しても、気づかぬふりをするのが「国民」の人間的自然です。システムの外では生きられないからです。零れ落ち、排除され、周縁に追いやられ、抑圧される恐怖に立ち向かうより、悩まず抗うことなく、「服ふ/順ふ」こと、翼賛することが幸福への最短距離です。人生の翼賛競争が宿命です。

 これに対して近現代日本史において、足を踏み外した者、逸脱した者たちが「不良品」として選別され「非国民」と名指され、狩り出されてきました。

 管野すが、金子文子、長谷川テルなどの女性たちは差別への加担を拒否して「自分を生きる」――ただそれだけのために「非国民」と糾弾されました。

 幸徳秋水、石川啄木、鶴彬、槇村浩、小林多喜二――植民地主義者であることを拒否する知性は主体的に変革への道を選択し、「まつろわぬ者」の形姿を私たちに残しました。

 誰も時代を乗り超えることはできませんが、時代を乗り超えるべく挑んで、その痕跡を残すことはできます。

 歴史の中の非国民に触発され「来るべき非国民」への道を模索すること――本連載の主旋律は読者の心に微かな残響を震わせることができるでしょうか。
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