2021年04月02日 1668号

【コラム見・聞・感/福島10年 今明かされる郡山市の極秘避難計画】

 避難指示区域以外の場所から避難した区域外避難者はこの10年、政治・行政からは徹底的に冷遇されてきた。国・自治体は初めから避難者切り捨てありきで進んでいたように思える。

 市内で比較的線量の低い場所の廃校を再開させ子どもたちを移す―今となっては驚きの避難計画の存在が明らかになった。昨年末の朝日新聞の報道だが、地元誌『政経東北』は2015年に報じている。

 「原発がさらに爆発したら避難させる計画でした」と語るのは原正夫元郡山市長。温かい食事を出せるよう調理室にプロパンガスを運んだと、木村孝雄元市教育長は証言する。校庭の除雪、除草をした。

 福島原発から50`も離れていた郡山市に避難計画はなかった。原に危機感を抱かせたのは3月15日に毎時8・6マイクロシーベルトの高線量が市内で記録されたこと。「国からの正式連絡を待っていたのでは間に合わない」と判断し計画作成を決めた。疎開先に選んだのは市中心部から20`離れ、線量も低い湖南地区。5つの廃校に電気や水道を通し、子どもを運ぶバスも60台手配した。市内の児童は1〜4年生だけで1万3千人。廃校には6千人しか収容できないが、当時、市にできる限界だった。

 もちろん、原がどこまで本気だったのかはわからない。その市長時、住民に知らせることなく公園など市民の生活空間に平気で除染土を埋めたり、市内の小中学校の教室に冷房設置を求めた保護者の請願を無視したりするなど、市民不在の市政を続けたからだ。その点を現市長の品川萬里(まさと)陣営に突かれ、2013年の市長選で敗れた。

 難病のため宇都宮市内の病院に家族を入院させていた原に当てつけるように、ポスターに「逃げない」と書いて品川は市長選に臨んだ。高線量の中、避難すべきか葛藤した末、残ることを選んだ市民には避難者への複雑な感情がある。その感情を巧みに利用し「避難=悪」のムードを広げる品川のレッテル貼り戦術に当時から市民は批判的だった。そんな人物に市民本位の市政など望むべくもなく、品川の評価も低下中だ。

 2011年5月、福島朝鮮初中級学校は全校生徒を新潟朝鮮初中級学校へ避難させた。原が避難計画を作ったことと併せ、避難の正当性を裏付ける出来事だ。原の政治的誤りは、計画を作ったことではなく実行しなかったことである。(水樹平和)
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