2021年04月30日 1672号

【新・哲学世間話 (26) 田端信広 ICT(情報通信技術)教育に抜け落ちているもの】

 文部科学省によれば、今年は「GIGAスクール元年」というらしい。学校教育に大規模にICT(情報通信技術)を導入し、小・中学校教育を高度化するのだという。その目玉が「1人1台端末」環境の実現である。今年3月、萩生田(はぎうだ)文科大臣は、その計画を当初案より前倒しして、今年から全国で実施すると発表した。この計画は小・中学校を対象としている。以下話をそこに絞って述べる。

 児童生徒の全員にタブレットやパソコンが与えられる環境が実現すれば、たしかに教育の豊かな展開が可能になる面がある。世界の遠隔地の人びとの話が直接聞ける、貴重な文化財に画像で接することができる―等々。それはある面では、教育を豊かにするだろう。

 だが、ICTはあくまでツールである。そのことを忘れ、ICTそれ自体が自己目的化されたり、自動的に教育を高度化すると単純に考えるのは、真の学力観を貧弱にしかねない。

 ICT教育の目的は、つまるところ「情報」発見能力、「情報」処理能力を高める点にある。「情報」はデータである。データとは元来「与えられたもの」という意味である。だから「与えられたもの」を処理する能力はICTによって高まるだろう。

 だが、ICTはデータ自身を疑う力、データの「意図」や「背後」を読み取る力を教えない。むしろ逆に、データ=「与えられたもの」自身を「真理」と思いこむ傾向が助長されかねない。

 データ処理能力の高さを学力の高さと勘違いしてはならない。求められる本当の学力は、「与えられたもの」を鵜呑みにせず、「なぜ」と自ら問い、自ら答えようとする力、自分で批判的に考える力であろう。

 もう一つ別の懸念もある。各人がひたすら「端末」と向き合っている現場からは、子ども同士が「教え合う」「学び合う」機会は減るだろう。集団で議論する機会も減少するだろう。

 そもそもICTのCはコミュニケーションの略である。コミュニケーションは、情報や自分の考えを一方的に伝達することではない。その極意は、「人の話をよく聞き、その考え・立場を理解する」ことにこそある。Cを「通信」とするICTには、こうした観点がすっぽり抜け落ちている。

 だが、他者と議論し「学び合う」ことは、本当に考える力を養う教育の不可欠な要素なのである。

  (筆者は本大学教員)
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