2021年07月09日 1681号

【時代はいま社会主義へ【第6回】 「弁証法」と「唯物論」とは何か――『空想から科学へ』(2)】

 『空想より科学へ』の第二章は、「弁証法」と「唯物論(ゆいぶつろん)」という言葉の意味を説明しています。それは、どういう考え方なのか、実際にはどういう意味をもっているのか。今回はそれを説明しましょう。

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 「弁証法的」な考え方とは、(1)自然と社会のすべてのものが運動のなかにあり、「生成し、変化し、消滅していく」という考え方です。それと、(2)個々の事物だけを見るのでなく、変化する「全体の姿」に注目すべきだという考え方です。

 たしかに、「すべてのもの」とは言っても、生まれてから消滅するまで数分間のものもあれば、社会の変化のように数十年間、数百年間を要するものもあります。地球の地質的変化のように、何十万年の単位のものもあるでしょう。だが、すべては変化しているのであり、「永遠」なものはなにひとつありません。

 それと反対の考え方をエンゲルスは「形而上学(けいじじょうがく)的」な考え方と呼んでいます。それは、自然や社会を変化しないもの、永遠なものと見る考え方のことです。これは(1)の反対です。もう一つは、「木を見て森を見ない」考え方です。これは(2)と反対の考え方です。

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 次に「唯物論」です。「唯物論的」な考え方は、わたしたちの、ある「思い」や特定の時代の「思想」や「社会」の現状がなぜそうなっているのかを、わたしたちの主観的な意識から独立した「物質的なもの」から説明します。「物質的なもの」とは単なる「物」のことではありません。それは、わたしたちの意識から独立して現存している社会の構造やシステムを含みます。ですから、「唯物論」は、わたしたちの「思い」や「思想」や「社会」の現状を、それを生み出している社会の構造から説明します。

 それに対して、「観念論的」な考え方は、同じことをわたしたちの「意識の持ちよう」でどうにでもなる「観念的なもの」から説明します。それが「原因」だと考えるからです。すると、わたしのつらい「思い」は、「気の持ちよう」、「意識の持ちよう」で変わることができるとされます。でも、それは「一時しのぎ」にすぎません。その「辛さ」や「苦しさ」が深く社会の現実に根ざしたものである以上、単に「気の持ちよう」を変えただけでは解決されず、その原因となっている社会的現実の差別や抑圧を変えなければ片付かないのは明らかでしょう。

 熱心な宗教信者の中には、病気や生活の苦しみを「神」や「仏」の力でなくそうとする人々がいます。それでは問題は解決しません。病気や苦しみの原因は「神の愛」や「仏の慈悲」の不足にあるのではないからです。神仏にすがって世の中の在り方を変えられると考える人は、典型的な「観念論者」なのです。

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 理屈の上では簡単なことですが、わたしたちもときに「形而上学的」な考えに落ち込んだり、「観念論的」な考えに迷い込むものです。

 いくら頑張ってみても、人の力では「世の中」は変わらないものだと考えてしまうとき、わたしたちは半分「形而上学的」な見方に落ち込んでいるのです。社会は人が作ったものである以上、人の力で変えられないはずはありません。また、自分の精神的辛さは、自分の性格的な弱さのせいで、自分の気の持ちようがしっかりしていないからだと思い込むとき、わたしたちは半分「観念論」に傾斜しているのです。「自己責任」論という誤った考えも、ここに源があります。

 わたしたちの「思い」や特定の時代の「思想」や政治的社会の現実は、社会のもっとも根底にある、経済的関係の構造から生じてくるのです。それがどういうものかは、次回のテーマです。
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