2021年09月03日 1688号

【ZHAP(ZENKO辺野古プロジェクト)で辺野古を止める/具志堅さん3度目ハンスト/遺骨眠る土砂で埋め立てさせない/ひめゆり学徒犠牲の地の冒涜だ】

戦没者追悼式の東京で

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松(ぐしけんたかまつ)さんが8月14〜15日、全国戦没者追悼式が行われる日本武道館周辺や靖国神社前の九段下で、遺族や参拝者に訴えるハンガーストライキを行った。

 ハンスト決行趣意書は「南部地域は、多くの住民や本土出身軍人のみならず、アメリカ兵や朝鮮半島出身者が戦死し、遺骨も残っている地域である。南部の遺骨の特徴は、砲撃などによる破砕遺骨が多いことであり、遺骨内部の微細な海綿体部分は、76年に及ぶ経年風化で消失して、土と化してしまっている。この様な戦没者の血と遺骨を含む土砂を埋め立てに使うというのは、戦没者への冒涜(ぼうとく)であり、内外の遺族の心を傷つける行為であり、許されることではない」としている。

 具志堅さんは、沖縄が新型コロナ感染で全国最悪となる中、一度はハンストを断念したが、国が南部土砂を使用する計画を撤回せず工事が強行されようとしているため、やむにやまれぬ思いで支援者の同行なしにひとり東京に足を運んだ。

ひめゆり学徒らが証言

 南部の土砂を絶対に埋め立てに使ってはならない。4月、リニューアルしたばかりのひめゆり平和祈念資料館で、生き残った女子学徒の証言集を読み進むうちに衝撃を受けた。

 1945年6月23日組織的戦闘は終結するが、その5日前18日夜半、ひめゆり学徒に突然の「解散命令」が下された。「君たちは今日までよく頑張ってくれた。今日からは自らの判断で行動するように」の一言で、敵の目前で壕(ごう)から放り出されることになった。

 遺骨土砂の採掘で問題になった、魂魄(こんぱく)の塔に隣接する鉱山周辺の丘陵は、山城の丘と呼ばれていた。鉱山のすぐ北側に陸軍病院山城本部壕があり、さらにその北側に伊原第一外科壕、ひめゆり資料館のある第三外科壕が続く。学徒らは、それらの壕内で負傷した日本兵の手当などに就いていた。



 証言集にはどう記されているか。

 上原当美子さん(当時17歳)は「壕は敵に囲まれているのです。結局、南の方以外に行くところはありませんでした。蜘蛛の子を散らすように壕を脱出し、みんな山城方向に向かって走りました」。

 喜舎場(きしゃば)敏子さん(19歳)は「はるか前方に山城の丘が黒く広がって見えていました。弾を避けながら、弾痕や崩れた石垣を飛び越えながら山城丘陵をめざしました。山城への道は、兵隊や避難民、看護婦、生徒たちの群れが大集団となってぞろぞろと動いていました」。

 このように、10人ほどの学徒が、解散命令をうけて壕から出た後、まず山城の丘に向かい、多くの同級生が砲撃で傷つき倒れていく様子を証言している。

米兵、朝鮮人の遺骨も

 6月18日、米軍司令官サイモン・バックナー中将が日本軍の砲撃で戦死した。最高司令官を失った米軍は、無差別攻撃を一層強化。じゅうたん爆撃を含め、南部一帯を徹底的に攻撃した。ひめゆり学徒が壕から出た日は、米軍の攻撃が一気に激しくなった日と重なる。

 山城の丘で壊滅した日本軍特設水上勤務第102中隊には、弾薬を運搬した朝鮮半島出身の軍夫たちがいた。壕内には、日本軍が連れまわした朝鮮人の軍「慰安婦」もいた。バックナー司令官とともに、米海兵師団や歩兵師団が地下陣地や壕を上から攻める「馬乗り攻撃」で掃討作戦を展開していた。沖縄戦では、いまだ200人以上の米兵も行方不明となったままだ。

 南部一帯は、数日で10万人規模の死者が出た激戦地だ。日本兵、沖縄県民、米兵、朝鮮半島出身者の多くがここで最期を迎えた。この地の土砂を基地建設のための埋め立てに使用することは、死者を二度殺すことになる。血と遺骨を含む土を使用させてはならない。

(ZHAP事務局長 西岡信之)





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