2021年12月17日 1703号

【未来への責任(337) 横井庄一の戦争≠ヘ問いかける】

 とうとう師走に入ってしまったが、今年はアジア・太平洋戦争開戦80年の年である。

 しかし、アジアで2千万、日本で310万もの夥(おびただ)しい人々を犠牲にした戦争を、この国はどう総括したのか? どこまで戦後処理をしてきたのか? 今も疑問は尽きず、それを問い続けることがなお問われている。

 そんな中、11月14日に放映されたNHK「目撃にっぽん」は、1972年2月にグアム島から戦後27年ぶりに帰還した横井庄一氏のことを取り上げた。「遺(のこ)された声〜横井庄一の“戦争”〜」

 グアム島から帰還した横井氏は、生前1500分にわたる肉声テープを残していた。NHKはそれを発見し、そこに刻まれた“横井の戦争”を明るみに出したのである。

 グアム島から帰った横井氏は、もっぱらグアム島におけるサバイバル生活について語り、「耐乏生活評論家」などと評されていた。しかし、日本に帰った横井氏は、羽田空港で彼を出迎えた斎藤邦吉厚生相(当時)に次のように言ったという。「グアム島戦後の状況をつぶさに皆さんに知ってもらいたくて恥ずかしいけれど帰って参りました」

 当時、「恥ずかしながら帰って参りました」というフレーズだけがクローズアップされたが、横井氏には、知ってもらいたい「グアム島戦後の状況」があったのである。

 横井さんが残した肉声テープなどで明らかになったグアム島の状況、戦後とは何であったか?

 彼はまず、グアム島で1944年7月米軍が上陸し、戦闘となった際、「参謀(上官)が先に投降した。あれこそ敵前逃亡だ。俺が生きて帰ったら困る上官がいる」と語っていた。彼は、日本軍の無責任を目の当たりにし、それを告発、批判したかったに違いない。

 第二に、戦後27年間もグアムの密林に潜んで出て来られなかった理由を明らかにした。それは、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」との戦陣訓に因(よ)るものではなかった。グアム島民の“報復”に怯(おび)えていたのである。現地住民兵(米軍資料「Combat Patrol」)が「戦後」も島内を捜索し、旧日本兵を見つけたら「鉄砲で殺すから」、横井氏たちは出て来られなかったのである。なぜ、島民は日本兵を憎み、掃討した(殺害された日本兵174人、捕虜12人)のか? それはグアム(「大宮島」と改称)占領中に日本軍が住民を強制収容し、強制労働を強い、虐殺、レイプ等をしたからである。

 横井氏は、これを明らかにし「戦後の後始末をつける」ことが必要と考え、密林から出てきた。それをこの国は今も受けとめていない。他方、被害を受けた島民に米国は肩代わりして「賠償」した(本紙2月19日付、1662号参照)。これで良いのだろうか。

(強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク 矢野秀喜)

 
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