2022年1月14日 1706号

【新・哲学世間話(30) 田端信広 批判を忌み嫌うこと】

 昨今は、何かを、誰かの考えを「批判する」ということ一般を忌み嫌う風潮が強まっているように思う。

 野党は「批判」ばかりしていると攻撃される。大手新聞社の舌鋒鋭い批判的記事には、書き手への人格攻撃が返ってくる。「批判」の中身が問題にされるのではない。とにかく「批判すること」一般が批判されているのである。だが、「批判」一般を忌み嫌う風潮は深刻な徴候を表している。

 そもそも「批判」という語は、原義にまで遡(さかのぼ)れば「分ける」「分割する」を意味する。元来、相手を「非難する」「攻撃する」という意味を含んでいない。

 ところが昨今では、特に若い世代では、この「分ける」ことこそが嫌がられる。自分と相手の考えを「区別」し、その「相違」をはっきりさせることが嫌がられる。それをすると、KYだとか、「事を荒立てる」とか非難されるからである。だが「批判する」―「分ける」―「相違」を明確にすることがなければ、是認も否認も起こらないだろう。

 この「事を荒立てない」風潮が世間に蔓延(まんえん)すれば、社会はどうなるか。ドイツファシズム批判の名著『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー、アドルノ著、岩波文庫)が喝破したのはその点である。すなわち、ファシズムは、人間の理性が現実世界に対する「批判」能力を失い(「理性の腐食」)、現存する社会の体制や制度をあるがままに是認、追認するようになった思考態度の実践的帰結である。つまり「誰もものを言わなくなる」ことがファシズムを醸成したのである。

 そして、この無批判的な現状追認の思想は強力なイデオロギー的性格を帯びている。ある人が「いくら批判しても、現実は変わらない」と言うとき、その人は、現実は人間の努力を超えた「神聖」な「侵されざるもの」のように思いこまされているのだ。

 名著の著者たちはその点をこう活写している。「厳然たる事実という称号のもとに、これらの事実が生み出す社会的不正は、今日では永遠にして侵されざるものとして揺るぎなく聖化される」。こうして現実「批判」は「タブー」となる。

 「空気を読み」「事を荒立てない」風潮の行きつく先は、この現実「批判」のタブー視である。「批判」を忌み嫌う風潮は、かの著者たちがかつて警告した事態の一歩手前まで来ていることを表している。

 (筆者は元大学教員) 
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