2022年1月21日 1707号

【見聞感 金景錫さんが最後に切り出した言葉】

 太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会会長の金景錫(キム・ギョンソク)さんが亡くなって15年。金さんが企業の強制連行・強制労働の責任を追及した日本で初の提訴から30年が経った。植民地支配の全体像を明るみに出し、日韓市民の架け橋を築いた功績は大きい。しかし、日本の政権は、未だに金さんの訴えを真摯に受け止めていない。

 本紙(前身の『統一の旗』)に2000年10月から連載した『我が人生 我が道』の聞き書きで私は何度か訪韓した。金さんは常に快く迎え入れ、春川(チュンチョン)市長に紹介したり、「裸の付き合いが大切だ」と銭湯に誘ったり、家庭料理をふるまってくれたり。礼を重んじ義理堅い面倒見のいい方だった。大柄で太い声、頑固な姿勢に近寄りがたい雰囲気はあったが、実は周囲に大変気配りする繊細な方であった。

 金景錫さん提訴と同じころ、金学順(キム・ハクスン)さんが「軍隊慰安婦」であったことを初めて名乗り出た。私が「『慰安婦』問題も一緒に闘いたいものですね」と水を向けたが、意外にも目を背けて不機嫌な顔をされた。儒学に通じた金さんだから「男尊女卑」の気持ちもあるのかなと思っていた。

 連載は25回にわたり、いざ最終回という時。金さんは初めて実姉のことを切り出した。「姉は将校の相手に出された。もの言わぬ性質だった姉は非常にショックを受けた。人生の華やかなるべき時代を暗黒の世界にさまよい、その後は一人の子もなくむなしく老い、1999年にがんで死にました」。私は何も言えず、涙をこらえて下を向いたままだった。

 金さんが、連載の最後に記した言葉を引用する。「父を治安維持法違反で留置所にぶち込み、兄貴を北海道に連行して死なせ、私を日本鋼管へ行かせ、姉までも人身御供(ひとみごくう)にした。姉の件は、口が裂けても言わないつもりだった。しかし、このまま言わなければ一家がどのように破壊されたかわからない。日本帝国主義の不法侵略の陰に、このような家族があったことを後世に証言するつもりで書いた。私は死ぬまで闘う」

 日本政府がいかに逃げようとしても、植民地支配の歴史と事実を消すことはできない。

      (山根昭平)

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