2022年02月04日 1709号

【未来への責任(340) 「正義の太陽はのぼる」と金景錫さん】

 昨年12月18日に「金景錫(キムギョンソク)・日本鋼管強制連行訴訟から30 年」集会が開かれ、私も懐かしい写真を皆さんに見せながら金さんとの出会いと思い出をお話しする時間をいただいた。

 私が金景錫さんと出会ったのは、就職して3年目の1993年5月10日の日本鋼管訴訟第6回口頭弁論だった。私が住んでいた街と強制労働現場となった川崎市が隣同士だったことから興味を持ち、『戦後補償ハンドブック』(梨の木社)に掲載されていた裁判事務局に連絡をし、生まれて初めて裁判所に足を運んだ。

 金さんは大柄で野太い迫力のある声で被告側や裁判所にも一歩も引かず、その姿に圧倒された。裁判事務局にも参加するようになり、そこで、駒澤大学経済学部教授であった故・古庄正(こしょうただし)先生とも出会った。1994年10月4日には、金さんとともに現場を歩くツアーを企画したりもした。支援には韓国人をはじめ多くの外国人労働者が集まった。強制労働問題は過去の問題ではなく、現在の日本社会の問題であることを教えてくれたのも金さんだった。

 その後、古庄先生から相談を受け、私は「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」の立ち上げに参加し、事務局長をやらせてもらうことになったが、金さんは1995年7月13日の「支援する会結成集会」にも参加してくださった。

 日鉄訴訟に奔走する中で、日本鋼管訴訟にはあまり関われなくなり、1997年9月に日鉄釜石訴訟が和解解決したが、複雑な思いがあった。そのこともあり、1999年4月6日に日本鋼管訴訟が和解解決したときは心の底からうれしかった。

 金さんは一人から裁判を始めたが、決して、自分のことだけで闘いを始めたわけではない。韓国北東部の江原道(カンウォンド)遺族会の戦後補償裁判を立ち上げ、春川(チュンチョン)には納骨堂を建立し、異国の地で亡くなった韓国人の遺骨の奉還に取り組んだ。また、不二越の強制動員被害者の裁判を支援し和解解決を中心になってまとめた。金さんは「遺族は社会で一番弱い立場にある」とよく話していた。強制動員でお兄さんを亡くした遺族であり、ご自身も強制動員で暴行を受けた被害者でもあった。その立場を最後まで貫き、全体のために尽力した人だった。

 最後に金さんの言葉を紹介する。「原告の自然消滅を心待ちにしている日本当局の思い通りには決してならない・・・暁を知らせる鶏の首をねじ切っても正義の太陽はのぼるからである」(『戦後補償 アジアからの叫びに応えて』1995年、統一の旗新聞社)

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 山本直好)

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