2022年04月29日 1721号

【時代はいま社会主義/第18回/反ファシズム統一戦線(3) 闘いがつくりだした統一戦線】

 ファシズムに立ち向かうコミンテルンの方針は統一戦線で闘うということであった。

 「資本主義諸国の幾百万の労働者と勤労者は、ファシズムが権力をにぎるのをどうやって防げるか、また勝利したファシズムをどうやって打ち倒すか、という問題を提起している。共産主義インタナショナル(コミンテルンのこと―引用者)はこう答える。まっさきにしなければならないこと、そこから手をつけねばならないこと、それは統一戦線をつくることである」。こう述べたディミトロフ報告は、全世界で労働者の行動の統一を打ち立てるために「共産主義インタナショナルと第二インタナショナルの二つのインタナショナルに属する諸党や諸組織の支持者たちの共同行動」が必要であると訴えた。ここでいわれる「第二インタナショナル」とは社会民主主義者(社会民主党)の国際組織のことであり、共産主義者と社会民主主義者の協力(共闘)がファシズムとの闘いに不可欠であることを呼びかけた。

 このように労働者の反ファシズム統一戦線の重要性を指摘したディミトロフ報告は、さらにこうした統一戦線を反ファシズム人民戦線へと発展させることの重要性にも言及した。労働者の統一戦線をベースに勤労農民、小商人、手工業者、事務員、インテリゲンツィア(知識人階級)などの社会層を結集したより広範な統一戦線(人民戦線)がファシズムとの闘いに一層効果的であることを力説したのである。こうした反ファシズム人民戦線の闘いは、スペイン(1936年2月)、フランス(1936年6月)、チリ(1938年12月)における人民戦線政府の樹立へと結実する。

 ディミトロフ報告が提起した統一戦線政策はファシズムとの闘いに多くの成果をもたらしたが、しかしこうした統一戦線政策はコミンテルンの従来方針と大きく異なっている点を見逃してはならない。コミンテルンの従来方針とは社会ファシズム論、すなわち「社会民主主義は社会主義の仮面をかぶったファシズム」という主張で、社会民主党は対決すべき対象であっても決して共闘の対象にはなりえないという捉え方が有力であった。そしてこうした理由から「社民=主要打撃論」が叫ばれるようになり、ドイツ共産党とドイツ社会民主党が軋轢(あつれき)を深める間隙(かんげき)を縫う形でヒトラーが政権を獲得するということになった。したがって、統一戦線政策を提起し、二つのインタナショナルの共同行動に取り組むことを宣言したディミトロフ報告はコミンテルンの従来方針の自己批判でもあったといえる。

 コミンテルンの従来方針を変えたのは各国における反ファシズムの闘いであった。とりわけ闘いが高揚したフランスでは、1934年2月の社会党系労働者を含む反ファシズム闘争の前進の中で共産党が社会党に共同闘争を提案し、社会党がこれを受けて同年の7月に社共両党の間で行動統一協定が締結されるという経過をたどった。現場の闘いが社会ファシズム論を克服したのであり、こうした闘いが二つのインタナショナルの共同行動というディミトロフ報告を生み出す原動力になったのである。      《この項終り》

(注)社会民主主義政党はドイツでは社会民主党、フランスでは社会党と呼ばれていた。

オンラインで読める『翻訳資料 グローバル・トレンド』No.11(2022年4月)

ウクライナ戦争をめぐる南アフリカ共産党の立場

編集・発行:民主主義的社会主義運動 理論政策委員会
MDSホームページから無料ダウンロードできます
MDSホームページに戻る   週刊MDSトップに戻る
Copyright Weekly MDS