2022年06月03日 1725号

【ZENKOユース参加団in沖縄に参加して】

 前号に続き、ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)ユース参加団in沖縄(5/3〜5/5)で基地・戦跡を訪れた若者たちの感想を紹介する。

不条理の詰め込まれた沖縄 平和の礎に親族の生≠実感

 平和参加団では多くのことを学びました。全体的に振り返り、沖縄はありとあらゆる不条理が詰め込まれた場所であると感じました。

 2日目は、沖縄戦を中心に学習、不条理な歴史を学びました。本土決戦までの時間を稼ぐため、沖縄では多くの住民や日本兵の犠牲を前提とした持久戦が展開されました。住民や兵士、動員された男子学徒隊やひめゆり学徒隊に対し、命を守る方法どころか、積極的に犠牲になる方法(特攻、「自決」など)が軍部から指導されていました。糸数アブチラガマや実際に学徒隊が切り込み攻撃した場所に行き、ガイドの説明を聞くことで、当時の異常さを身をもって感じました。

 1日目と3日目は、辺野古、嘉手納、普天間基地や読谷補助飛行場跡等に行き不条理な現状を学ぶことができました。米軍基地には数多くの問題がありますが、あえて一番の問題をあげれば、辺野古基地が完成しても米軍が要求する滑走路の長さに満たず普天間基地は返還されないことだと思います。辺野古基地への移転に賛成の方もこの現実を知ればおかしいと感じるのではないでしょうか?

 私は、ひとりでも多く、沖縄の過去と現在の状況を知って体感していただきたいと思いました。身をもって知り考えることで、今後の平和社会をどう作るべきかが見えてくると考えます。

 平和の礎(いしじ)に祖父の兄の名前が彫られていることを確認できました。名前に自分の手で触ることで、確かに大正時代から沖縄戦で亡くなるまで生きていたのだな、と実感しました。平和の礎に行くことができ、大変うれしく感じています。ありがとうございました。
(滋賀・増永悠希)

僕と同世代が 沖縄戦で亡くなったんだ

 僕はエイサーを踊って約8年経ちますが、一度も沖縄に行ったことがなく、今回ZENKOのユース参加団の人たちと一緒に沖縄に行き、いろいろ学べました。

 一番勉強になったのは沖縄戦のことです。小学校では広島、長崎に修学旅行で行き、「広島原爆ってこんなんだったんだ」とか、「原爆ドームって間近で見るとこうなっているんだ」とか、恐怖心はありました。だけど、今回専門学生になって沖縄を訪れ、とても心を動かされました。

 まず、糸数のアブチラガマに初めて入ったことです。ガマの中で、懐中電灯を当てていると明るかったけど、消すと人も全く見えずその暗さを体験しました。このアブチラガマは、戦場が南下するにつれて南風原(はえばる)陸軍病院の分室となりました。軍医が3人程度で600人以上の負傷兵を助けるのは不可能でした。助けたい気持ちがあるのに助けられないっていうのは、とても辛かっただろうと思います。

 ひめゆり平和祈念資料館では、亡くなった学生たちは僕と同年代と知り、とても恐ろしいと思い、他人事と思えませんでした。米軍が迫った6月18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出され、まだ10代の女学生が「自分の判断で行動しろ」と戦場に放り出されたのです。鬼畜米英≠ニ教育された生徒らは、捕虜になることをもっとも恐れ、行くあてもなく木の茂みや岩陰に隠れながら海岸へと向かい、砲弾に倒れる者が続出しました。亡くなった学生や教師の顔、生年月日、性格、亡くなった原因が展示されていて、それらを一つひとつ読んでいると、涙が止まりませんでした。

 戦争の恐ろしさを知り、平野キジムナーや「月桃の花」歌舞団でエイサーを踊るときに、今まで以上に心を込めて踊っていこうと思いました。本当に沖縄に来てよかったです。

(「月桃の花」歌舞団 谷上暢)



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