2022年06月24日 1728号

【時代はいま社会主義/第20回/『国家と革命』(2)―近代国家は個々の資本家の道具ではない】

 前回で述べておいたように、国家は根本的には、支配階級の利益を防衛するための機関にほかならない。そのことはしかし、近代国家が個々の資本家や資本家集団の意のままになる単純な道具であることを意味しはしない。国家はむしろ、「社会全体」を代表する「公的な」性格をも帯びるのである。

 では、国家のそうした「公的な」性格はどのようにして生じるのであろうか。

 マルクスとエンゲルスによる以下の2つの文章を、レーニンは『国家と革命』で引用してはいない。しかし、これらの文章は、国家がなぜ「公的な」性格を帯びるのかを解明するうえでの手がかりを提供しているので、とても重要である。

(1) 「近代の国家権力は、ブルジョア階級全体の共同事務を処理する委員会にすぎない」(マルクス?エンゲルス『共産党宣言』:傍点は引用者)。

(2) 「近代国家は、これまた資本主義的生産様式の一般的な外的諸条件を、労働者や、さらに個々の資本家の侵害から守って維持するために、ブルジョア社会が自分のためにつくりだす組織にすぎない。近代国家は、どういう形態をとっているにせよ、本質上は資本家の機関であり、資本家の国家であり、観念上の総資本家である」(エンゲルス『反デューリング論』:傍点は引用者)。

 上の引用文(1)は、近代国家がブルジョアジー全体の共通利益を保護すること、つまりは資本主義社会の総体が円滑に再生産されることを保障するための組織であることを指摘している。言い換えれば、近代国家は、たとえ資本の有力な分派であったとしても個々のブルジョアジーの特殊で私的な利害を実現するための道具ではないのだ。

 そのため、上の引用文(2(が述べているように、国家はときに個々の資本家による反対や抵抗をすら排して、資本家階級全体の利益の実現を図ろうとする。だから国家は「総資本家」なのだ。それはしかし、利潤を追求する実際の資本家ではない。国家はむしろ、資本主義社会の維持を目的とする機関であるかぎりにおいて「観念上の総資本家」と呼ばれているのである。

 したがって、国家は階級的・社会的力関係に応じて、労働者階級をはじめとする被支配階級の要求に対しても譲歩したり、それを汲み取って法制化したりせざるをえない。たとえば、工場法の制定以来の労働条件の改善や社会保険制度の整備は労働力の再生産を可能にするための措置であったし、環境破壊に対する規制は資本主義的生産の一般的な外的条件を保護するための措置であった。かりにそれらの措置がとられなかったとすれば、資本主義社会はその基盤を蝕まれて崩壊していたであろう。しかもそれらの措置は、自己の目先の利益を最優先し利潤の獲得をめぐって互いに競争関係にある個々の資本家の発想からは、出てこないのである。まさにここにこそ、経済的な支配階級から形式的に分離し、この階級の私的な利害から距離をとることのできる「公的な」国家が資本主義社会における階級支配にとって必要不可欠であることの根拠が見いだされる。

 そして、そのような「公的な」性格こそが、国家をあたかも「市民の共同体」であるかのように人びとに受け入れさせるナショナリズムの培養器となっているのである。この点が、次回の主題となる。《続く》
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