2022年08月12・19日 1735号

【未来への責任(354)金順吉さん提訴から30年】

 7月30日に「金順吉(キムスンギル)裁判提訴30周年記念集会―強制動員の実態を記録した日記帳から裁判は始まった―」が連合会館で開催された。この日の報告は被爆二世として長崎で活動する平野伸人さんだ。

 平野さんは1987年に核兵器廃絶の運動をともに闘おうと韓国の被爆者団体に呼びかけるために訪韓したときに「戦後ずっと強制連行の被害の補償はおろか日本の被爆者援護制度からも排除されてきた私たちがなぜ賛同しなければならないのか」と問い返されたことに衝撃を受け、以後在韓被爆者支援の運動を続けている。その在韓被爆者の調査で出会ったのが三菱長崎造船所に強制連行され被爆した金順吉さんだ。長崎と広島に強制連行された元徴用工被害者は強制労働と被爆という二重の被害に戦後も苦しみ続けた。

 彼は連行された日々の出来事や自らの被爆体験を畳の下に隠した手帳に克明に記録していた。そして「この日記には事実しか書いていない。この手帳を使って強制連行と被爆の事実、三菱の戦争責任を明らかにしたい」と200ページに及ぶ手帳を平野さんに託した。

 こうして1992年に三菱重工に未払い賃金の支払いと謝罪と補償を求める金順吉裁判が始まった。裁判は疑いようのない日記の記録などをもとに被害事実は認定したものの、長崎地裁は後の強制連行の裁判と同様「国家無答責」や「別会社」を理由に請求を棄却した。判決を病床で聞いた金順吉さんは失意のうちに亡くなった。

 当時、平野さんらは裁判と並行して未払い賃金の供託名簿の公開や郵便貯金の返還、厚生年金脱退手当金の支給などを日本政府に求めていたが、政府の社会保険審査会は脱退手当金支給を裁決したが外務省が日韓請求権協定で解決済みであるとして横やりを入れて支給が保留となった。しかし長崎を訪れた菅直人厚生大臣(当時)に平野さんらが「直訴」して35円の脱退手当金を支給させた。そのとき金順吉さんは「勝利」と書いた色紙をかかげ「わずか35円だが私にとっては3億5000万円の価値がある」と涙を流して喜んだ。すべての請求権が日韓請求権協定で消滅したとする日本政府の主張を打ち破る「アリの一穴」であったからだ。

 その後も日本製鉄元徴用工裁判の原告呂運澤(ヨウンテク)さんや名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の原告らも支給を勝ち取った。日韓両政府の首脳が交代し改めて徴用工問題の解決が焦点化されているときだからこそ、この「アリの一穴」を大きく広げていかなければならないと改めて心を引き締めた集会であった。

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 中田光信)

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