2022年11月11日 1747号

【若者は解決策を求めている/DSA ビル・イェイツさんは語る】

 来日中のDSA(アメリカ民主主義的社会主義者)ビル・イェイツさんとZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)が10月29日、大阪で交流会を持った。ビルさんはDSA結成(1982年)に携わったメンバーだ。社会主義者に対する厳しい弾圧の時代を乗り越え、急拡大するDSA。その原動力は何だったのか。ビルさんは自身の来歴から話を始めた―。

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 生まれ育ったテキサス州の小さな町では高校卒業後の進路は石油会社か軍隊に入るしかなかった。67年入隊。ベトナム戦争が激しさを増すころ日本の朝霞(あさか、埼玉県)にあった米軍野戦病院で負傷兵受け入れの任務に就いた。毎日100人、200人と運び込まれてきた。自分もベトナムに送られ、悲惨な戦場を目の当たりにした。

 72年に北西部シアトルで除隊。以来その地で暮らしている。自分の戦争体験を振り返った時、社会の矛盾を感じ、変革のために何かをしなければと考え、当時の社会党(DSAの前身、DSOC=民主主義的社会主義者組織委員会)に入った。全国でも約5000人、シアトルでは十数人程度しかいなかったが、組織は自分がしたいこと、どうすべきなのかに具体的な方針を示してくれた。

 とはいえ、社会主義者と名乗ると差別を受ける時代だった。組織は増えたり減ったり。仲間と支え合い、活動を維持・継続してきた(DSOCは82年、フェミニスト団体などと合流し、DSAを結成)。

急拡大した組織

 2016年の大統領選挙にむけた民主党予備選挙でバーニー・サンダース候補の支援活動がきっかけとなり、DSAは急拡大した。十数人で活動を続けていたシアトル支部も、会議のたびに50人、100人と参加者が倍になっていった。若者たちが自分がやりたいことを自分たちでできる組織を作り、自分たちの手で行う。DSAはそんな組織に変わっていったと思う。

 社会的矛盾が存在している中で、若者は解決策を求めている。高校生、大学生で組織するYDSAも学習の機会を作っている。古くからの活動家はそうした若いメンバーの学習を援助している。

 ZENKO辺野古反基地プロジェクト(ZHAP)に取り組むDSA国際委員会のメンバーも非常に若く、DSAに参加して間もないメンバーだ。日本語を学ぶメンバーや米軍の海外基地を問題にするメンバーなどが集まってきた。

 それまでDSAの中でも、沖縄の米軍基地、辺野古問題はほとんど知られていなかった。ZHAPの存在意義は高まっている。

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 社会主義を広め、前進させるのは人と人の会話であり、そうした活動だ。集会も参加者とともに楽しめるものがいる。自分の経験から、人が集まらない状況の中でも、仲間とともにつなげてきたことが大事なことだったと思う。頑張っていこう。

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