2022年11月18日 1748号

【たんぽぽのように(26) 韓国の進歩政党運動《U》 李真革】

 韓国では5月と11月に労働者大会が大きく開かれる。

 メーデーと、1970年11月13日に自分の体に火をつけた青年労働者、全泰壱(チョンテイル)を記念するためだ。韓国の労働運動で、そして進歩政党運動で全泰壱の名前は象徴的だ。彼が叫んだスローガンが「勤労基準法を遵守せよ」だったからでもある。法律が存在しても、使用者側と政府によって簡単に、あまりに頻繁に無視される現実を変えなければならなかったからだ。労働者や抑圧される民衆を代弁する政党が必要だった。

 分断と戦争、軍事独裁は、より良い社会を作るための努力を妨害し続けた。国家保安法という悪法は、マルクス主義などの思想と運動との結合を妨げた。「共産主義」はもちろん「社会民主主義」のような単語を口にすることも、マルクスの本を購入することもできなかった。こっそりと入手した日本語訳版を非専門家が翻訳したせいで、マルクス主義に対する誤解と歪曲が生じる副作用もあった。

 それでも朴正煕(パクチョンヒ)大統領殺害と全斗煥(チョンドゥファン)、盧泰愚(ノテウ)による軍事クーデター、「5・18光州」を過ぎて、ますます多くの運動組織が生まれた。さらに、80年代に入って急激に増えたコピー機の普及は思想学習と論争を深化させ、「社会構成体論争」が10年ほどの間に非常に激しく起こった。

 ここでは詳細には触れないが、韓国社会(資本主義)をどう分析、定義するのか、また、変革の方向をめぐって、民族解放と民主主義的変革から革命をめざすのか、労働者階級を中心に社会主義的変革をめざすのか―などなど。様々な運動領域で衝突があり、進歩政党の建設についても同様だった。多数派となった民族主義路線は、独自政党建設よりは「候補単一化」や「批判的支持」のような表現で、既存の政党や政治家たちに関心を持った。

 ところが軍事独裁時代が終わり、選挙による権力獲得が保障された以上、革命で社会を変えようとする主張は立場を失った。また、旧ソ連など社会主義陣営が崩壊し、路線と戦略の根本的見直しが緊急に問われた。新しい路線が必要だった。

 こうした状況で、それぞれ異なる路線の人々が集まって「国民勝利21」を結成し、民主労総委員長の權永吉(クォンヨンギル)を候補にして大統領選挙に参加した1997年は、韓国の進歩政党運動史に記録される年といえるだろう。

(筆者は市民活動家、京都在住)
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