2022年11月25日 1749号

【時代はいま社会主義へ 第24回 民主主義的社会主義へ(3) 社会主義ソ連はなぜ崩壊したか】

3.ペレストロイカによるソ連経済の再建の試み(U)

 ペレストロイカは経済改革、政治改革、対外政策の三位一体として進められた。

(1)経済改革

 経済改革は「集団に、個々の働き手に、社会的財産の管理面での広範な可能性を与え、効率に対する彼らの責任を高めることを意味する」(前川一郎「ペレストロイカのめざすもの」『統一の理論』18号、1990年、11-12ページ)。

 1987年6月に制定された国有企業法は完全独立採算制を導入した。各企業は自らの製品販売収入ですべてをまかなわなくてはならなくなった。これまでは、売れようが売れまいが生産目標を達成すれば中央から資金が与えられた。新しいシステムの下では、各企業がコスト削減に努力しなければならなくなった。無駄な在庫を減らし、省エネルギー、省資源の生産を追求しなければならなくなった。

 さらに所有の多様化が進められた。1990年7月から実施された所有権法により、これまで国家的所有に一括されてきた生産手段の所有形態を、国家的所有、集団的所有、市民所有に多様化した。所有の多様化により労働者の経済管理への直接的参加を保証し、生産性を向上させていこうとした。

 その結果、モスクワの協同組合レストランのフョードロフ議長が「協同組合運動の発生とともに事業で自由に自分を発揮できるという期待が芽生えてきた」(「ソ連経済における所有の問題」『今日のソ連邦』、1989年9月15日号、51ページ)と言うように変化が起きてきた。

(2)政治改革

 労働者の自主性を発展させるには、非民主主義的政治制度を同時に変革しなければならない。ゴルバチョフは「経営管理機能がますます党・政治指導部のもとに集中したこと、同時に執行機関が異常に肥大した」ことの結果として「国民の大部分は国家問題や社会問題の解決への現実的参加から遠ざけられ、無関心、社会的積極性の弱まり、社会的所有や管理からの働く人々の疎外が生じた」と指摘した(1988年6月ソ連共産党第19回全国党協議会)。この問題意識に基づき、まずグラスノスチという情報公開が進められ、1988年12月には新たに最高の国家権力機関として全人民代議員大会が創設された。党機関と国家機関の分離が進められ、大統領制が導入された。また政治的複数主義が認められた。共産党政治局が国のすべてを決定する政治システムを変え、全人民代議員大会で決定することに変えた。共産党の決定を追認するだけの役割を変えたのである。

(3)対外政策

 ペレストロイカを推進するためには、危機的な軍拡競争を終わらせ、無駄な軍事費を削減することが必要である。ゴルバチョフは「新しい思考」を打ち出し、ペレストロイカを支える対外政策で平和共存路線推進を徹底した。ゴルバチョフによれば「帝国主義への対抗の軍事的側面に巨大な資金と注意を集中したわれわれは、諸国家の安全保障のために、また、緊張緩和と諸国民の安全保障のために、世界における根本的な変化と関連して開かれた政治的可能性をいつも利用したわけではなかった」「われわれはみずからを軍拡競争に巻き込んでしまった」と総括した。これに基づきゴルバチョフは積極的軍縮を進めた。アメリカとの戦略兵器削減交渉などを進めた。「欧州共通の家」を掲げ、ヨーロッパにおける軍縮、平和への確固たる展望を明らかにした。

 ペレストロイカは、ソ連内における経済改革・政治改革を通じた民主主義の徹底、対外政策における平等互恵の民主主義的関係の構築である。民主主義の徹底から社会主義の発展を目指すという方針であった。

 《続く》
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