2023年04月14日 1768号

【未来への責任(371)韓国人遺族と戦没地に(上)】

 文科省の教科書検定に合格した小学校教科書で、戦時中の日本軍への動員に関し「志願して兵士になった朝鮮の若者たち」という表現が使われていたことに強い憤りを覚えた。意に反し強制し、又は洗脳して戦争に動員したではないか。そして朝鮮の若者たちは戦病死の後、遺骸は放置され、勝手に靖国に合祀(ごうし)されて日本軍の「神」とされ、戦没の事実さえ遺族に通知されなかったではないか。

 2012年9月、私たちは韓国人遺族とともに5千人以上の朝鮮人が戦没したパプアニューギニアを訪れた。私たちは韓国人遺族の要求であった遺骨返還の闘いを模索し、今に続く一歩を踏み出した。10年も前のことだが今でも鮮明に覚えている。

 コ・イニョンさんのお父さんは1944年9月3日、ボイキン村で戦病死となっている。インドネシアの国境に近いボイキン村でまずは、どこでチェサ(祭祀)をするか決めてもらう。コさんは浜辺で海の見える方向にチェサの場所を決めた。引率の太平洋戦史館岩淵さん(ニューギニア遺族)が「遺族は、祭事はここでしたいという場所を自然に見つける」と言うように、波の音が聞こえるきれいな静かな場所で、海のずっと向こうは韓国だ。浜辺に台を設置し、横断幕を張り、供物や故人の写真などを準備した。

 「アボジ、アボジと、どれほど呼んでみたかったか。アボジ、どんなに悔しかったでしょうか。アボジ、どんなにさびしかったでしょうか。アボジ、故郷においてきた家族にどんなに会いたかったでしょうか。…なんで今ごろ(遅く)来たのかと、とがめるアボジの声が耳に聞こえてくるようです。アボジ、息子の声が聞こえますか…」。私も泣けてきてしょうがなかった。

 「アボジ、今日はアボジと一緒にここで無念に死んだ同僚たちと一緒に来て、悲しみと苦痛、恨(ハン)多い心の荷物をいったん置いて、息子の杯をお受けください」とチェジュ島から持ってこられたお酒を砂浜に注いだ。お父さんに用意した服や靴を浜辺で焼いた。

 私たちの周りに蝶が飛んできた。遺族がニューギニアで祭事をするとその後必ず蝶が飛んでくるという話は聞いていて驚いたが、お父さんが「こんなに遠くまで、ありがとう」と言って来てくれたのだろう。

(戦没者遺骨を家族のもとへ連絡会 上田慶司)

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