2023年05月12・19日 1772号
【脱原発を実現したドイツ フクシマの反省なく原発回帰の日本 全原発廃炉へ市民参加と運動を】
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ウクライナ戦争開始後、エネルギー事情が厳しさを増す中にあっても、4月15日をもって脱原発を実現したのがドイツだ。福島原発事故を経験しながら、岸田政権が原発回帰への暴走を続ける日本との違いを探る。
倫理委員会での議論
ドイツでは、旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(1986年)をきっかけに、1990年頃から脱原発の機運が高まった。1998年の総選挙で成立したシュレーダー政権(社民党・緑の党の連立)は2002年、20年後に脱原発を実現する方針を決定。国内17基の原発を2022年末までに全廃するというものだ。
だが、再度の政権交代で発足したメルケル政権(保守政党・キリスト教民主社会同盟)は2010年、脱原発の期限を14年も延長する。この時点でドイツの脱原発の期限はいったん2034年まで遠のいた。
そこに福島第一原発事故(2011年)が起きた。メルケル首相は「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」を設置する。「電力価格の高騰や対外的な輸入依存、二酸化炭素排出の増加なしに、エネルギー安全保障と競争力を確保しながら、原子力エネルギーを止めることができるのか」を審議することが、その委員会の任務とされた。
委員会は、原発の経済性や安全性だけでなく、事故の際の健康被害や環境破壊、核のごみや再生可能エネルギーの重要性などあらゆる角度からエネルギー政策を審議。原発への絶対的拒否と「相対的比較」(原発が他のエネルギーよりましであれば容認)を求める意見の根本的対立もあったが粘り強い合意形成が行われた。
委員会は、原発事故の損害は大きすぎ、リスクと利益の比較はすべきでないとして絶対的拒否の立場に理解を示した。一方で、原発廃絶によって引き起こされるエネルギー危機など他の要因も考慮すべきであるとして「相対的比較」を求める立場にも配慮した。
「リスクの少ない他のエネルギーによって代替しうる限りにおいて、原子力を速やかに終わらせる」べきであり、段階的な脱原発こそが「すべての関係者にとって試練であると同時に新たなチャンスでもある」。委員会がまとめた結論だ。
メルケル首相が就任直後に決めた脱原発期限の延長は国内の大きな反発を呼び、12万人の市民が原発を人間の鎖≠ナ結んで抗議した。こうした運動の力に直面した経験を持つメルケル首相は委員会の結論を尊重し、みずから決めた脱原発期限の延長方針を撤回。脱原発の期限は再び2022年末に戻った。ウクライナ戦争後のエネルギー事情を考慮して、期限は再び今年4月15日まで延長されていたが、その期限とともに予定通り脱原発を完了した。
ここまでの経緯を振り返ると、ドイツの脱原発方針は一貫しており、揺らいでいないことがわかる。
社会学者が議論を主導
倫理委員会の筆頭委員として議論を主導したのは社会学者ウルリッヒ・ベック(元ミュンヘン大学社会学部教授/リスク社会学)だ。政治家・官僚が素人集団であるのをいいことに、専門性を持つ学者グループが政策決定過程を独占し例えば「原子力ムラ」に有利な決定を繰り返す。科学が民主主義政治による統制から逸脱する事態をベックは「サブ政治」と名付けた。
規制する側の政府が、規制を受ける側の「ムラ」に取り込まれる現象を、福島原発事故に関する国会事故調査委員会が「規制の虜」と呼んだが、ベックはチェルノブイリ事故直後からその危険な本質を見抜き、警告を発していたのだ。
科学民主化と運動発展
自分たちに都合のいい「正しさ」を振りかざし、放射能を「正しく恐れろ」と主張。異なる意見は「風評」と切り捨てる。事故から12年後の今も日本の御用学者は市民の批判を受け続ける。ドイツが選択したようなまっとうなエネルギー政策のために何が必要か。
吉川肇子(きっかわとしこ)慶応大教授は、科学者が市民不信から脱却し、議論への市民参加を認める必要性を訴える(『科学者に委ねてはいけないこと』岩波書店)。反原発運動をドイツ市民が展開した規模へ発展させることが必要だ。市民ひとりひとりが自分の頭で考え行動を続けるなら、倫理に反する原発から脱却すべきという結論は自然に導き出される。
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