2023年09月22日 1789号

【シネマ観客席 福田村事件/森達也監督 2023年 日本 137分/「朝鮮人なら殺してええんか」】

 関東大震災の際に「朝鮮人襲来」のデマが飛び交う中、千葉県の村に行商で訪れた一行が地元民に襲われ、9人が殺された。この実話をもとにした映画『福田村事件』(森達也監督)が公開中である。普通の人びとがなぜ、集団虐殺という凶行に走ったのか。

幼児も妊婦も惨殺

 事件は地震発生から5日後の1923年9月6日に起こった。場所は千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)。香川県から薬の行商に来ていた一行を大勢の村人が襲い、15人中9人を惨殺したのである。殺された者の中には6歳と4歳と2歳の子ども、そして妊娠した女性がいた。

 村人たちは「朝鮮人襲来に備えよ」という内務省の通達に従い、自警団を組織していた。移動中の薬売り一行を「朝鮮人に違いない」と決めつけ、駐在の警官の制止も聞かず集団で暴行、殺害に及んだ。なお、被害者は全員、被差別部落の出身であった。

 本作はこの福田村事件を題材にした劇映画である。森監督は「この映画はエンタメです」と言い切る。観る側の怒りや悲しみといったエモーションを刺激することを目的とした作品という意味だろう。「そこに自分がいたら、どうするのかと思いながら観てくれるのが一番おもしろいかもしれない」とも述べている。

 実際、映画の登場人物は現代を生きる私たちが自分を重ねやすいように造形されている(外見や言葉づかい、考え方も)。具体的にみていこう(以下の記述、ネタバレ有り)。

もし自分だったら

 水道橋博士演じる長谷川は在郷軍人会の分会長。彼は「上の学校」に進まなかったことに劣等感を抱いており、ことさら立派な帝国軍人らしく振る舞おうとする。「朝鮮人騒ぎ」の際も虚勢を張っているにすぎなかったが、隣村の在郷軍人会分会長に「いざという時に腰抜けか」と罵倒され、態度を急変させる―。

 田向(演・豊浦功補)は福田村の村長。大正デモクラシーへの憧れを常々口にしており、同い年の長谷川を苛立たせている。在郷軍人主導の自警団づくりには消極的だったが、「村を守れ」といきり立つ人びとを止められない。茫然とする田向に長谷川は言い放つ。「お前はデモクラシーに見捨てられたんだ」

 澤田(演・井浦新)もまた「無力なリベラル」を体現する人物だ。彼は朝鮮に渡り教員をしていたが、辞めて故郷の福田村に帰ってきた。その背景には、日本軍に利用され、独立運動の弾圧に加担してしまったという痛恨の過去があった。

 軍国主義の台頭に絶望し、社会に背を向ける澤田。妻の静子が行商団一行を助けようとしても手をつかんで制止する。「あなた!また何もしないつもり?」。静子の叫びに突き動かされ、澤田は「この人たちは日本人です」と訴えるが…。

 森監督がどうしても入れたかったというメディアの問題。ピエール瀧が演じる千葉日日新聞の砂田部長には、幸徳秋水が創刊した平民新聞に勤めていたという裏設定がある。政府や軍部に逆らうと潰される。大衆の不安を刺激したほうが新聞は売れる。かくして朝鮮人や社会主義者の脅威を煽る記事が紙面に踊り、嘘が真実になっていく―。

 最後に、行商団の若き親方・沼部新助。被差別部落に生まれ、「わしらみたいな者はもっと弱い者から銭を取り上げないと生きていけない」と自嘲気味に語る。だが、人が人を差別する行為は理屈抜きで許せない。その怒りが、朝鮮人に「間違われ」殺されそうになった時に爆発する。「朝鮮人なら殺してええんか」

 いかがであろう。「自分も長谷川の立場だったら同じことをするかも」「田向は俺だ」「砂田には葛藤があるようだが、今のメディアはそれすらない」などと感じたのではないか。

虐殺の背景に戦争

 澤田を演じた井浦新はこう述べている。「この物語の中に戦争のシーンはない。でも戦争が人びとの心に影響を与え、すべての物語のシーンを生んでいる」。植民地支配が育んだ差別意識。敵国の民を殺すことを正義とする戦争国家の論理。それが普通の人びとを殺戮に駆り立てたのだ。

 「自衛の意識が、(コロナ禍の際の)自粛警察や震災後の虐殺にもつながる。そして敵基地攻撃能力の保有をめぐる話だって、『他国に攻められたらどうするのか』という不安と恐怖が根底。つながっている」と森監督は言う。

 世の中に殺されていい者などいない。よって国家による集団殺人=戦争を正当化することなどできない。この真理を戦争国家の道をひた走る今の日本社会は忘れつつある。私たちはすでにこの映画における「福田村の人びと」になってはいないか。本作の問題提起はここにある。   (O)

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